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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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190317 ハイデルベルク信仰問答 問29~30

使徒4:11-12 「唯一の救済者」

 イエスという名は、元々はヘブル語の「ヨシュア」をギリシャ語に音訳した言葉でして、「主は救い」という意味の名前です。古くからイスラエルではよく付けられる名前で、イエス様がおられた当時も、ごくありふれた一般的な名前でした。当時の親たちは、自分たちの民族の誇りである出エジプトの出来事にあやかり、我が子の人生にも主の救いがあるようにと願ってヨシュアもしくはイエス、つまり「主は救い」と名付けたわけです。けれど、イエス様の場合は違います。それは両親であるヨセフとマリアの願いではなく、御使いの知らせによってでした。つまり、父なる神の御心によって名付けられたのです。全能なる神の御心ですから、これはそうなったら良いなぁというような「願い」ではありません。それはいわば宣言であり、本質です。なぜ神の御子が「イエス=主は救い」と呼ばれるか。それは、他に言いようがないからです。神の御子の本質を一言で言い表せば、それは「イエス=主は救い」という方に他ならないからです。ですから、私たちは使徒信条で「イエス・キリストを信じます」と告白することは、主は私の救いと信じます。と告白することなのです。
 さらに、ハイデルベルク信仰問答は、神の御子が「主は救い」と呼ばれるのは、唯一の救いが、他の誰かに求めたり、見出したりすることができないからだ。とも言っています。つまりイエス・キリストを信じると告白することは、他のあらゆるものを救い主として認めないという告白でもあるわけです。このことは第30問でより強調して語られます。第30問は、明らかに当時の聖人崇拝を意識しての問答です。聖人崇拝は、多くの功徳を積んで死んだ聖人たちに願って、その功徳を分けてもらって、天国に行こうというものです。この背景には、救いは神の恩恵と共に人間の善行が必要であると考えるカトリックの救済観があります。しかし、ハイデルベルク信仰問答に言わせれば、それは「イエスが完全な救い主ではない」と言っているようなものです。イエス様を信じる。それはイエス様こそ私の唯一の救いと信じることです。そして、イエス様以外の何者も私の救いではないと信じることです。イエスの名に並び立つものは何一つ無いのです。
 今年のゴールデンウィークは10連休になるという話です。天皇の代替わりに伴う大嘗祭があるからです。この大嘗祭に関して、秋篠宮は「大嘗祭は宗教色が強く、公費で賄うことが適当かどうか」と疑問を呈しました。色々な考えあっての発言でしょうが、発言自体はまさにその通りでありましょう。しかし、これに対し政府は儀式に宗教的性格があると認めつつ、「極めて重要な伝統的皇位継承儀式で公的性格がある」として宮廷費を支出する方針を決めたとのことでした。公費か私費かということを論じようとは思いません。宮中儀式に宗教性があると知りつつも、伝統的であり、公的であると位置付けることが問題です。先の大戦時、日本のキリスト教会が神社参拝は宗教ではなくて伝統であると位置付けて、アジア各国の教会に神社参拝や宮城遥拝を説得したことを彷彿させます。実は今私たちは、イエス・キリストを信じるという信仰の実態が問われる時代に来ているのです。
 使徒4:12「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです。」
 私たちはイエス様こそ唯一の救い主と告白しているでしょうか。イエス様を信じるというのは、単に心の中で信じるということではありません。信じ告白するその所に立つということです。告白を裏切らずに生きるということです。私たちは時代や状況に流されることの無いよう、はっきりとイエス・キリストを我が救い主と告白することが大事なのです。
 このような生き方は不自由に映るでしょうか。世と折り合いを付けず、反発するキリスト者は窮屈でしょうか。けれど、必死に周囲に気遣って、時代時代の権力に迎合して生きることの方がよっぽど不自由ではないでしょうか。この数年の間に、日本では急速に全体主義が広がってきています。少数の意見は掻き消され、皆が忖度する世の中です。私たちはいつも誰かの批判の目を気にしながら、多数派に属することが求められるのです。けれど、そんな中で周囲の目を気にすることなく、自らの信仰に正直に生きることができるとしたら、これほどの自由があるでしょうか。イエスこそが我が主と告白することは決して不自由な生き方ではありません。そこには私たちの信じるところに蓋をしない、真の自由があるのです。

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