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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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190331 ハイデルベルク信仰問答 問33~34

Ⅰコリント6:19-20 「私たちは主のもの」

 以前、私たちが神を父と呼ぶことができるのは、私たちが神の子とされたからだと学びました。であれば、イエス様が独り子と呼ばれるのはおかしいじゃないか。とは、当然の疑問です。
 ガラテヤ4:1-7では、私たちは「この世のもろもろの霊の下に奴隷となっていた」とあります。ですから、私たちが神の子とされた恵みは、私たちが奴隷であったことを覚えるとき、より際立っていくのです。奴隷というのは、人間としての権利・自由が認められず、道具同様に持主の私有物として労働に使役される人間のことです。自由もなく、未来もなく、意思も、感情も、意見すらも求められず、ただひたすらに命じられたことに従う存在。命の権利すら主人の思いのままであります。更に厄介なのは、これが制度となること。つまり、奴隷の子として生まれた者は生まれつき奴隷となることが決まっているということです。
 けれど、聖書が「奴隷であった」と言うとき、それは、目に見えるところのではありません。この世のもろもろの霊の下に奴隷であったと言うのです。もろもろの霊とは何でしょう。御子の御霊と対比になっていますから、それは悪霊のことです。悪霊のもとに奴隷であった。聖書の別の所では「罪の奴隷」とも言ったりします。私たちは奴隷と呼ばれるほどに罪の支配に縛られていたというのです。悪魔の甘いささやきに何ら抵抗できず、ただ黙って従うしかなかった、そういう弱い無力な存在として私たちは生まれた、と言うのです。
 そんな私たちが、イエス・キリストの贖いのゆえに、神の子としての身分を受けたのです。ですから神の独り子であるイエス様と、神の子とされた私たちは、同じ神の子でありますけれども、その意味は全く違います。スイスのジュネーブ教会の牧師であったアンドレ・ペレーはこの所の講解で言っています。「私たちが子たる身分を授けられたという現実が、どんなにイエス・キリストの恵みであろうとも、彼と私たちとの間の本質的な違いということを忘れないようにしよう。イエス・キリストに対する無遠慮な親しさ、キリスト者の側の無節操な「馴れ馴れしさ」は、決して、よい前兆ではない。一般に、この「尊大な兄弟感」、この「友達付き合い」は、もはや、救って下さる方が神ではないという前触れである。」調子に乗ってはだめと言っているわけです。では私たちはイエス様を何と呼べば良いのでしょう。使徒信条は「われらの主」と教えています。
 問34の答えには、イエス様が「金や銀ではなく御自身の尊い血によって、わたしたちの罪と悪魔のすべての力から救い、わたしたちを身と魂もろとも贖って、御自身のものとしてくださった」とあります。奴隷制度の時代、奴隷である一人の命の権利は、文字通り金銀によって買い取られました。けれど、イエス様は、自らの尊い血によって、つまり、自分自身の命を身代わりとして、その権利を買い取られたのです。このイエス様のゆえに、私たちは神の子とされ、主のものとされた。だから、私たちはこのお方を「われらの主」「私たちの主人」と呼ぶのです。
 主のものとされた私たちに問われるのは、ではどのように生きるのかという現実です。私たちが神の子とされたのは、主イエスの贖いによる一方的な恵みです。私たちの努力や行いが問われたのではありません。しかしだからと言って、私たちが御心に適って生きることをイエス様が望んでいないはずがありません。神によって造られたはずの人間が、罪のゆえに神の栄光を表せないでいたのです。イエス様はそれを捨て置けなかったのです。だからイエス様はご自身を犠牲として、私たちの贖いとなられた。つまり、イエス様は私たちに神の子の身分に恥じない生き方を期待しておられるのです。

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