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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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190407 ハイデルベルク信仰問答 問35~36

ピリピ2:6-11、ヘブル4:15 「神は人となった」

 主イエス・キリストの誕生。使徒信条はこのイエス様の誕生について、2つの起源を告白しています。聖霊とおとめマリアです。主は聖霊によって、人であるマリアの胎より、罪なき者としてお生まれました。
 そもそも、なぜイエス様はおとめマリアより生まれる必要があったのでしょうか。神の子であるイエス様はあらゆる方法を持ってご自身を啓示できたはずです。栄光ある姿を持ってこの世に来られることもできたし、人の想像を遥かに超える威厳ある姿を持って現れることもできました。考えてみれば、天使のほうがよっぽど神々しいわけです。どんなに理解の及ばない出来事でも、ガブリエルを見れば、マリアもエリサベツも納得せざる得ないのです。それだけの説得力が、神の栄光にはある。イエス様が、例えば後にヘルモン山で見せた神の栄光を帯びて来たのなら、誰もイエス様をさげすむことも否定することもなかったのにと思います。その言葉に聞き従ったと思います。
 また、わざわざ出産という方法を取らなくても、ある日突然大人の姿で人々の中に現れるということもできたはずです。大事なのは、公生涯に入られたイエス様であって、それ以前の出来事など取るに足りないことではないでしょうか。事実、福音書では、イエス様の若かりし頃の出来事はほぼ記されません。10ヶ月の間、母の胎の中にいて、赤ん坊として生まれ、成長する。そんな七面倒な手段をわざわざ取らなくてもと思います。
 けれど、イエス様は、おとめマリアを通して、人として、赤ん坊として生まれます。そして人として成長いたします。つまり、そうすることを選ばれたということです。福音書ではほとんど記されることのない隠された30年間。その一日一日がイエス様にとって必要であったということです。
 人の赤ん坊は、一人では生きられません。誰かの手を借りなければ一日たりと生きられない存在です。例えば草食動物の赤ちゃんは、生まれてすぐに立ち上がります。イルカやクジラといった海の動物は、生まれた瞬間から泳ぎだします。けれど、人の赤ちゃんは違います。何も出来ない。本当に無力な存在です。イエス様は、そのような存在となることを選ばれたのです。家族と笑い、泣き、成長し、額に汗して働く。そういう日々を過ごすことを良しとされたのです。つまり、神である方が人となられたというのは、単に姿かたちが人となったということではなくて、人として生き、人として歳を重ね、あらゆる経験を通じて、人として生きられることなのです。
 もちろん、全知全能である方は、人となる前から人を知り尽くしたお方です。私たちの知ると神の知るは比べ得るものではありません。けれど、たとえば、人となる前、神は試みられることは無かったわけです。誘惑されることも、罵られることも、ありませんでした。イエス様は人として生まれ、人として過ごし、人として成長する、その過程を取られることで、それら一切を経験なされたのです。だから、このお方は、私たちの弱さに同情される方なのです。
 私たちの救い主が、弱さを知っておられるということに、私たちは慰めを得るのです。いえ、もちろん創造の神、全知全能の神は、私たちを知っておられます。けれど、罪のゆえに後ろめたさを持ち続ける私たちにとって、神に知られるということは、平安ではなく、むしろ不安ではないでしょうか。「支配者を恐ろしいと思うのは、良い行ないをするときではなく、悪を行うときです。」とローマ13:3にある通りです。けれど、イエス様は裁くために知るのではなく、同情するために知るのです。それゆえ、私たちはこのお方と共にあることに平安と慰めを得ることができるのです。

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