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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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190428 ハイデルベルク信仰問答 問40~42

ローマ6:4-11 「神の御子の死」

 第40問は、「なぜキリストは、「死」を苦しまなければならなかったのですか。」と問います。単純に「なぜキリストは死ななければならなかったのか。」と問うているのではありません。イエス様が死を苦しみとして受けられた事実を問うているのです。
 イエス様の十字架に至る苦しみが如何に壮絶であったか、私たちは受難週の主日に確認したことでした。しかしイエス様の苦しみは、肉をえぐる鞭打ちの苛烈さとか、心無い人々の嘲りや蔑視から受ける屈辱だとか、釘打たれ、吊るされ、腕が伸び呼吸困難になる、という肉体的な苦しみだとか、それは、もちろんイエス様の死に際しての苦しみであったわけですが、イエス様にはもっと根本的で究極的な苦しみがありました。それは、神の御子が父なる神に見捨てられるという苦しみです。イエス様は十字架上で叫びます。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」もっともイエス様にはそぐわない鎮痛な叫び。確かにこの死の間際、神の御子であるイエス様は父なる神に見捨てられたのです。
 私たちにとって、困難にあっての最後の砦と言いましょうか、最後に寄りすがるところは何でしょうか。誰に頼ることもできない。誰の助けも見込めない。そんな中、しかしそれでも、尚失われない最後の希望はどこにあるのでしょう。それはつまり、私たちは神に知られている。この呻きのようなか細い願いを、神は確かに聞いて下さる。ここに私たち信仰者にとっての究極的な砦があるのではないでしょうか。神はお見捨てになられない。だからこそ私たちは、暗闇の中で尚、立ち上がることができるのであります。けれど、イエス様はその究極的な希望を失われた。神に寄りすがることすら許されなかった。これが苦しみでなくて、いったい何なのでしょうか。確かにイエス様はあの時、「死」を苦しまれたのです。そしてそれは私たちの贖いとなるためだと言うのです。
 本当に私たちにはそのような価値があるのでしょうか。神のひとり子が犠牲となるほどの価値があったのでしょうか。ありません。私たちは自分が如何に罪深い、愚かな者かを知っています。毎日のように、同じ失敗をくりかえす者です。自分でもしたくないこと、自分でも願っていないこと、自分でも愚かと思うことを繰り返してしまうのです。いったい、こんな者に何の価値があるのかと思います。けれど、イエス様は、父なる神は、私たちをそのように見てくださったのです。ですから、私たちは使徒信条で、イエス様が死なれたことを告白する時、それもその死が教義上の教えではなくて、紛れもない現実であったと告白する時、私たちは私たちに向けられている神の愛に目が開かれるのです。
 しかも第41問が言うように、私たちはわざわざ「死んで葬られ」と、その死が、確かで、動かしようのない客観的な事実で、それは公に認められたことだと、こう告白するわけです。それほどまでにイエス様は死なれた!と強調する。なぜなら、私たちは、この死の先にこそ、イエス様が示された最大の希望を見るからです。すなわち、復活の希望。永遠の命を見るからです。
 第42問では「わたしたちがさらに死ななければならないのですか。」と問うて、罪の償いが完成した後も残る、現実の死の問題に触れています。つまり、イエス様を救い主と信じても、結局は皆同じように死んでいくではないか。という疑問です。イエス様を信じれば、死なないようになるのであれば、何の疑いもありません。けれど、イエス様を信じても、実際には、以前と何ら変わりなく死んでいくのです。ではこれは、福音の無力さを意味しているのでしょうか。そうではありません。その死は、すでに罪の刑罰としての死ではなく、永遠の命への入り口であると聖書は言うのです。つまり信仰者もまた、同じように死ぬのだけれども、その意味するところは全く違う。それは罪の刑罰としての死ではなくて、罪の死滅であり、永遠の命への入り口である。これこそが私たちに届けられた福音なのです。

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