FC2ブログ
プロフィール

Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

最新記事
カテゴリ
月別アーカイブ
最新コメント
検索フォーム
リンク
QRコード
QR

190512 ハイデルベルク信仰問答 問45

Ⅰコリント15:12-20 「主のよみがえり」

 ハイデルベルク信仰問答はイエス様のよみがえりが、私たちにどのような益をもたらしたかについて、3つの回答を用意しています。一つは、イエス様が死に打ち勝ってよみがえられたので、わたしたちもその義にあずからせてくださるということ。二つは、わたしたちは新しい命に入れられていること。三つは、イエス様のよみがえりは、わたしたちのよみがえりの保証であることです。
 これらのことがどれほど大きな恵みであるかは、もしもイエス様がよみがえらなかったのなら、と考えるとよくわかります。
 イエス様がよみがえらなかったのなら、どうなっていたのでしょう。第一に、私たちはイエス様の義にあずかれなかったのです。イエス様の義にあずかれないとは、つまり、神の前に私たちの義が問われるということです。旧約の民の如く、逐一律法に照らして自らを律し続け、罪を犯しては犠牲の生贄を捧げる。それは言い換えるなら、私は神の目に適っているかと絶えず怯えて過ごさなければならないことです。神の目は私の落ち度を粗探しする監視の目ではあっても、決して私を見守る優しい眼差しとはならないことでしょう。命令と服従。一方的な関係がここにはあります。そして、この関係が悲惨なのは、私たちでは決して神の義を全うすることはできないという事実です。
 第二に、イエス様がよみがえらなかったとしたら、私たちは新しい命に呼び覚まされていません。つまり、未だに古い命のままということです。古い命とは滅びに至る命。肉の欲に支配された命。罪の奴隷のままであるということ。神の永遠の価値観ではなくて、時代に縛られたこの世の価値観に生きるということです。この世の価値観は、神との関係の中で自分の存在を見出すことができませんから、絶えず他人との比較の中で自分の存在を位置付けなければなりません。自分よりも優れた人を見ては妬ましく思ったり、やさぐれたり、自分よりも劣った人を探しては優越感に浸ったり。目に見える能力や結果で人を判断して、自分を判断する。ですから、いつも他人の目を恐れ、媚び、相手に受け入れられようと自分を殺して仮面を被って過ごさざるを得ないのです。利害関係でしか相手を見ることができず、心から相手を信頼することができません。古い命のままに生きるとは、そのような肉の生き方に未だ縛られているということです。
 そして第三に、イエス様がよみがえらなかったのなら、私たちの死の先に何ら保証はありません。イエス様は「わたしを信じる者は死んでも生きるのです。」と言われました。なぜでしょう。先にある「わたしはよみがえりです。いのちです。」の言葉が真実だからです。もしも、イエス様が死んで終わりなら、そこに何の希望もありません。死は相変わらず、私たちにとって絶望であり恐怖でしかありません。死の先に何の希望もなく、先に見送った兄弟姉妹たちとの再会は、そうだったら良いなぁという単なる願望でしか無い。私たちは今という現実だけに縛られて、明日を恐れて過ごさなければならないでしょう。
 おわかりでしょうか。イエス様がよみがえらなかったなら、私たちは神を恐れ、人を恐れ、死を恐れる者であったということです。けれど、イエス様はよみがえってくださった。全てがひっくり返ったのです。イエス様の義にあずかった私たちは、もはや神の刑罰を恐れて過ごすことはありません。神は裁き主ではなくて、私たちの父となられました。また、新しい命に呼び覚まされた私たちは、もはや他人の目を恐れません。私の存在を認めるのは他人ではなくて神だからです。私たちをひとり子の命と引き換えに引き取られた神様のもと、私たちは自分の存在する意味を見出すのです。そして、イエス様のよみがえりは、死が終わりではなくて、永遠の希望の入り口であることを明らかにされました。私たちは今日という日を死を恐れて過ごすのではなく、神の恵みに生かされていることを感謝して過ごすことが出来るのです。

コメント

非公開コメント