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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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190519 ハイデルベルク信仰問答 問46~48

ヨハネ14:1-4 「キリストの昇天」

 ハイデルベルク信仰問答は、イエス様が天に昇られる目的は、他でもない、わたしたちのためだ。と答えています。けれど本当でしょうか?私たちのためだと言うのなら、天に昇るよりもむしろ、この地で共にいて下さることの方が、よっぽど私たちのためではないでしょうか。困難にある時、試練にある時、私たちは思うことでしょう。イエス様がここにいてくださったならとです。ラザロを失った悲しみで思わず呟いたマルタとマリアのように、イエス様がここにいてくださったら良かったのにと叫ばずにはいられない現実があるのです。にも関わらず、なぜイエス様は天に昇られるのでしょうか。イエス様が天に昇られるということは、地上でのイエス様の不在を意味することではないのでしょうか。復活のイエス様は言いました。「わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」(マタイ28:20)それは単なるリップサービスだったのでしょうか。
 もちろん、そんなことはありません。それはつまり私たちの天の住まいを用意することが、今を生きている私たちのために何よりも優先事項であったということです。そして、イエス様が天に昇られることが、むしろ「いつもあなたがたとともにいます」と言われたことを実現するための具体的手段であったということです。
 イエス様への信仰の行き着く先がどこなのか。このことは実は私たちの将来ではなくて、今に対して大きな意味を持っています。なぜなら今この一歩が、この一日が確実にあのゴールに繋がっている。この確信があるからこそ、私たちは前に進むことができるからです。何処に行くのかわからないけれど、とにかく進むというのでは、決して道中の平安を得ることはできません。いえ、その歩みが無駄になるかもしれないと思えば、歩き出すことすら困難です。人生において、私たちの行き着く先はどこにあるのか。その根拠は。そのゴールを知っておくことが大事です。そして実はイエス様が天に昇られたという事実こそが、私たちが天国へ招かれることを信じる根拠となっているのです。
 今朝の礼拝は図らずも召天者記念礼拝です。礼拝の中で先に召されたお一人お一人に思いを向けることは、天国の希望の具体的な実感であります。天の御国は、そこにおられる兄弟姉妹の存在によって、抽象的でない、願望でもない、教理でもない、リアリティーを持った恵みを私たちにもたらしてくれるのです。ならば、イエス様が先におられるということに、さらに確かな天国の希望を見るのは当然ではないでしょうか。もしもイエス様が私たちの側にいて、イエス様よりも先に私たちが死を迎えることになったらどうでしょう。イエス様がそこにはおられないとすればどうでしょう。「私も後から行きますから、とても良い所だと聞いてますから、安心して行ってくださいね。」イエス様すら知らないところに行くことに、果たして私たちは安心できるでしょうか。けれどイエス様は私たちの先にそこに行かれて、すでに住まいを用意してくださっているのです。だから私たちはやがて招かれるそのところに確かな希望を抱くことができるのです。
 さて、イエス様が天に昇られたということは、もう一つ、イエス様がともにおられるための具体的な手段でもあります。ハイデルベルク信仰問答では神性人性と難しい議論がされていますが、要は、人として地上におられるままであれば、それは極めて限定的なイエス様の存在でしか無かったということです。私たちは時に、思うかもしれません。ペテロやヨハネのように直接イエス様と会えたならどれほど良かったかとです。しかし、そうではないのです。イエス様が地上におられるよりも、天におられることで受ける恩恵は大きいのです。肉体を取られた地上のイエス様は、時間と場所に制約された存在でした。しかし、天上のイエス様は、聖霊によって偏在されるお方です。それゆえこの方は、エルサレム、ユダヤ、サマリヤだけではない、全世界の主となられるのです。ご自身が地上を去ることを通して、聖霊を私たちのもとへと遣わし、私たちに福音宣教の使命を委ねられ、そしてご自身は天において新たなる使命をなされる。イエス様は肉においてここにはおりませんが、霊において私たちと共におられるのです。イエス様が目に見えてここにいないという事実が、実は私たちにとっての恵みであることを覚えたいのです。

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