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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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190602 ハイデルベルク信仰問答 問52

Ⅱテサロニケ1:6-10 「キリストの再臨」

 悪が得をして、正直者が損をする。残念ですが、そういうことが世の中にはあるのです。いじめられている子を見かけて庇います。すると次の日から、その庇った本人がいじめられるようになる。よくある話です。会社のために懸命に働いて挙句の果てに過労死という話もあります。一番頑張った人が一番報われないということなど幾らでもあります。世の中は本当に理不尽なことで溢れかえっています。ですから、私たちは時に思うのです。正直に生きるよりも、ずる賢く生きることの方が得なのではないかとです。世の中は理不尽。実際にそういった現実を教えることこそが教育だと言う人までいます。
 しかし実は、そういった考えを根本から吹き飛ばす事実を、聖書は語っているわけです。それはつまり、イエス様が再臨して、生ける者と死にたる者とをさばかれるという事実です。
 世の中は言います。自分の好きなように生きて、やりたいようにやって、やりきって死ねばそれこそが人生の勝ち組だと。けれど、そうじゃないんですね。その先を見なければなりません。イエス様が裁くために来られるのです。この世においての私たちの生き方に応じて、私たちはやがて報いを受けることになる。「私たちはみな、善であれ悪であれ、それぞれ肉体においてした行いに応じて報いを受けるために、キリストのさばきの座の前に現れなければならないのです。」(Ⅱコリント5:10)だから、私たちは私たちの生き方をよくよく吟味しなければなりません。自分の好き勝手に生きることは、罪人である私たちにとって、滅びの道を歩むということに他なりません。そうではない。私たちは主のみこころに生きなければなりません。誰が見ていなくても、誰も助けてくれなくっても、何の得もなくても、私たちは正直に、誠実に歩まなければなりません。主はご覧になっているからです。主は報いてくださるからです。私たちは義の奴隷として、神の国の住民として、主の御心を慕い求めて過ごすのです。
 注意しなければならないことは、私たちが正しいのではないということです。もしも私たちがこのことを忘れて自らの正しさを追い求めるなら、私たちはその正しさを持って他人を裁くことになるでしょう。けれど、ローマ2:1にはこうあります。「ですから、すべて他人をさばく者よ、あなたに弁解の余地はありません。あなたは他人をさばくことで、自分自身にさばきを下しています。さばくあなたが同じことを行っているからです。」裁くことは主イエスの業です。それはこの方だけが正しいお方だからです。ですから、私たちは自らの正しさを誇ることはできません。そうではなくて神の正しさに目を向ける時、私たちはその正しさを、他人を裁くための物差しではなくて、自らを省みるための姿見とすることができるのです。神の義しさに目を向ける時、私たちは自らの振る舞いを正すことができるのです。
 もう一つ注意したいことは、主イエスの再臨に伴う裁きは、私たち信仰者を救いからふるい落とすものではないということです。この世の理不尽な出来事の中、あらゆる悲しみや迫害の中でも、イエス様はわたしたちを天の喜びと栄光の中へと迎え入れてくださる。これが再臨の希望です。悪は滅ぼされ、神の正しさが永遠に立つ。ですから、私たちは主の御心は何かと問いながら、絶えず神のみ言葉に聞いて、照らし合わせて生きるのです。地上の悪がどれほど大きかろうと、正しく生きることがどれほど窮屈に思えようと、信仰のゆえの迫害があろうと、私たちはその先があることを忘れてはなりません。主イエスがよみがえり、死に勝利されたことを忘れるわけにはいきません。キリストにならう生き方は、この世においてどのような試練や困難、たとえ迫害に会おうとも、必ず勝利に導かれる。私たちの想像を遥かに超えた栄光が用意されている。これが聖書の約束するところです。ローマ8:18「今の時の苦難は、やがて私たちに啓示される栄光に比べれば、取るに足りないと私は考えます。」

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