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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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190616 Ⅰコリント4:14-21 「偽りない信仰の証し」 父母の日礼拝

Ⅰコリント4:14-21 「偽りない信仰の証し」 

 養育係は機嫌を取ることはしても、子のために叱ることはしません。雇われている身分だからです。霊的退廃を招いている信徒たちを心から気遣ったり、正しい道に連れ戻そうとしたりしない者は、すべて養育係にすぎません。子に必要なのは、多くの養育係ではなく、たった一人の父親です。父親は子の成長に責任を持ちます。その子が誤った道を歩むなら、体を張って引き戻すのが親心です。パウロは父親として、子であるコリントの信徒に言います。「私に倣う者となってください。」(16節)。
  親が子どもに向かって「お父さんのようになりなさい」とか「お母さんのようになりなさい」とは、なかなか言えないことです。もちろん親だけではありません。誰かに向かって「私のようになってください」とは、なかなか言えない言葉です。それは相手ではなくて、むしろ忠告する者の生き方こそが問われる言葉だからです。私たちは自分自身が人にならわれるような者でないという事実を知っています。ですから、自分を見習えなんて言う人は、よっぽど己を知らないのか、よっぽど傲慢なのかとさえ思います。
  けれどパウロは言います。「私に倣う者となってください。」。パウロのこの言葉は高慢ではありません。実体験に基づく恵みの知らせです。パウロが「私に倣う者となってください。」という時の私(パウロ)とはいったいどのような者だったのでしょうか。1:27で、パウロは「この世の弱い者を選ばれました」と言っています。2:2では「十字架に付けられたキリストのほかは、何も知るまいと決心していた」とも言いました。3:5では自分のことを「奉仕者」と呼び、3:22では自分のことを「あなたがたのもの」と呼びます。そして4:9では「この世の見世物」とまでに呼ぶのです。彼の言うことを思い出してみれば、「私に倣う者となってください。」と命じるパウロの姿は、実は人前に何の誇るところもない、弱く小さな者に過ぎないのです。そんなパウロが唯一誇るのは、主です。つまりパウロは背伸びした自分を見せようとしているのではありません。失敗もし、落胆もする。人々から見下され、無視されることもある。しかし、そんな中でも私を支え、慰め、再び立ち上がらせてくれる主がおられる。このような弱い者を主は選んでくださった。そういう信仰生活の実態を見せようとしているのです。
  親として、信仰の先輩として、私たちは続く世代に何を見せるべきでしょうか。一切欠けのない完璧な立ち振る舞いでしょうか。人前で活躍し続ける様子でしょうか。それは無理というものでしょう。パウロは第一テモテ1:15-16で「「キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた」ということばは真実であり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。しかし、私はあわれみを受けました。それは、キリスト・イエスがこの上ない寛容をまず私に示し、私を、ご自分を信じて永遠のいのちを得ることになる人々の先例にするためでした。」と言います。罪人のかしらである自分が、憐れみのゆえに救われた。この恵みに立つからこそ、私たちは人々の見本となることができる。自らの内に働かれた神の憐れみを誇ることが出来るのです。自分自身を見せるとき、自分の愚かさ、醜さ、隠してしまいたい過去、そのような弱さと共に、そこに働かれるキリストの温かさ、懐の深さ、寛容さ、力強さといったものが確かに証しされる。だから、私は罪人のかしらであることを恥じることなく、私(の内に働かれた主)を見よと言うことができる。(キリストの他に何一つ誇ることのない)私に倣う者となってくださいと語ることができるのです。
  子どもたちは見ています。私たちの信仰が、本当に困難にあって救いとなるのかをです。私たちが困難にあって、本当に信仰に頼るのかをです。私たちはその時その時、等身大で構いません。正直に神と向き合う姿を証しするのです。
  私には誇るものは何一つありません。私は人に見せられるような者ではありません。けれど、私のうちに働かれた主は違います。どんな人にも胸を張って誇ることができる、主の取り扱い。どれほどそれが憐れみ深いかは私の弱さを見ればわかります。こんな者をも主イエスは憐れんでくださった。ですから、神の憐れみの保証は、私たちの内にあるのです。そしてこれこそ、私たちが次の世代に誇るべき信仰の姿です。

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