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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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190630 ハイデルベルク信仰問答 問56

ローマ8:1-2 「神は思い出さない」

 ハイデルベルク信仰問答は、罪の赦しについて「わたしのすべての罪と、さらにわたしが生涯戦わなければならない罪深い性質をも、もはや覚えようとはなさらず」と言っています。ここに罪の赦しの本質が記されています。つまり、罪の赦しとは、私たちの性質の変化ではなくて、神がそれを覚えないという決定事項であるということです。
 相手の過失を赦すということはとても難しいことです。私たちは、赦したつもりでも、実際には赦せていないことばかりです。何かがある度にすぐ、相手の過ちが思い出されます。そういえば、以前、こんなことをされた。あの時は、こんなひどいことを言われた。一つの不満が呼び水となって、紐づけされた今までの恨みつらみが留まることなく溢れ出てきます。それが当然の権利かのように、私たちは私たちの正義を振りかざして、何度も何度も裁きます。一つの不満が十にも百にも膨れ上がって、そもそもの怒りが何だったかわからなくなるくらいに、怒りで我を忘れたりするのです。だから思い出す度に赦すことが求められる。イエス様は7回の70倍するまで。とおっしゃいましたが、それは私たちの忘れられない性質をイエス様はご存知だからです。
 けれどもです。神の赦しというのは、根本が違うのだとハイデルベルク信仰問答は言います。神はもはやその罪を覚えようとはなさらない。と言います。それどころか、キリストの義を転化することによって、私たちの存在自体を裁きの対象から外されると言うのです。覚えようとはなされない。というのは、罪を見ないふりするということではありません。キリストの義を転化するのですから、罪の処罰は確実になされたのです。神はその解決した罪をもはや覚えようとはしない。過去に遡って掘り返すことをしないのです。
 罪の赦しが聖霊の告白の中で語られていることが大事です。つまり、罪の赦しは教会という聖徒の交わりの中で体験されるものでなければならないということです。私たちの交わりの中で、過去に遡ってその人の解決した罪を掘り起こしてはいけない。一度覚えた偏見や先入観でその人を見てはいけないということです。私たちは一度相手が憎いと思えば、どれだけその人が変わろうとしても、なかなか認められません。けれどそうではあってはいけません。聖徒の交わりは赦しの交わりです。そもそも私たちは神から一方的な恵みによって罪赦された者の集まりでしかないのです。私たちは過ちを犯す者です。失敗だらけで、沢山の迷惑をかけながら過ごしてきた者です。神の名に相応しくない者です。けれど、神はそんな私たちの過去を覚えようとはなさいません。過去に悔いて、新しく生きようとするその決意を覚えてくださるのです。ですから、私たちも相手の過去を見てはいけません。今を見るのです。これからに期待するのです。
 このことはもちろん、互いの罪を見ないようにするということではありません。あくまでも「覚えない」ということであって、罪とわかっていながらそれを放置することは聖徒の交わりには相応しくありません。私たちは愛を持って教えます。敢えて厳しい言葉を口にします。それは、その人が罪を曖昧にし神を軽んじることのないためにです。けれど、その人が真摯に罪と向き合うなら、悔いるなら、私たちはもはやそのことに触れる必要はありません。神がその罪をもはや思い出さないと言われたのです。私たちがそれを掘り返す必要はどこにもありません。
 私たちは聖餐式において、十字架の贖いと復活の恵みを覚えて、神の赦しを体験します。罪深い私がこの聖餐を受けることを赦されている。パンとぶどう酒をいただきながら、神の憐れみを実感致します。そして同様に、共に聖餐を受ける兄弟姉妹の赦しを体験するのです。赦されているという実感が、私たちを赦す者へと変えます。これは聖霊の働きです。私たちは日々新しい者へと作り変えられているのです。ですから、昨日の姿を見るのではなく、今日の姿を見る私たちの交わりいたしましょう。

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