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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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190707 ハイデルベルク信仰問答 問57~58

Ⅰコリント15:51-58 「死後に続く希望」

 使徒信条は罪の赦しに続いて、「身体のよみがえり」、そして「永遠のいのち」を告白致します。この告白は聖霊の告白のもとにありますから、これはイエス様のよみがえりのことを言っているのではありません。これは他ならぬ私たちの身体のよみがえりのことであり、私たちの永遠のいのちのことであります。ここでは私たちの死後についての聖書の教える希望が告白されているのです。
 「土のちりは元あったように地に帰り、霊はこれを与えた神に帰る。」(伝道者12:7)これが聖書の死生観です。つまり聖書で言う死とは、肉体と霊が分離することを指し、人は死後、その肉体は地に帰り、霊は神に帰ると言うのです。問題は、ここで言う神に帰るとは、神の前に引き出され神の裁きに会うことに他ならないということです。「そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、」人は死に、その魂は裁かれる。主とともにあるパラダイスか、燃えるゲヘナか、そのどちらかに入れられるのです。もしも私たちが自らの罪を悔い、主イエスを救い主と信じるなら、十字架にかけられた強盗の如く、私たちもまた直ちにパラダイスに招かれるのです。ハイデルベルク信仰問答が「魂が・・・直ちに、頭なるキリストのもとへ迎え入れられる」と言うのはこのことです。しかし聖書の希望は単なる魂の救いに留まりません。「やがてこの体も・・・再びわたしの魂と結び合わされて、キリストの栄光の御体と同じ形に変えられる」と言っています。つまり、永遠の救いとは、私たちの存在が誰かの心に生き続けるという単なる精神論ではないということです。また例えば輪廻のような、私たちが今ある関係や経験をまっさらにリセットして、別の存在に生まれ変わるという不連続性を持った永遠でもありません。私たちの愛する人、大切な人との関わりや思い出を一切失うことなく、確かな肉体を持ってよみがえると言うことです。
 確かな連続性を持って、私たちはよみがえります。しかし、やはり今までと同じではない。よみがえった身体はキリストの栄光の御体と同じにされるのです。ここによみがえりの希望があります。もしも永遠の命が、単なる命の継続を指すのであれば、これは単純な希望とはならないでしょう。たとえば重い病に苦しんでいる人は、そんな永遠はいらないと言われるのではないでしょうか。私たちは確かな連続性を持ってよみがえります。永遠の命を生きるようになります。けれどそれは、キリストの栄光の体と同じ形にされてのことであり、誰も思い浮かびもしなかったような完全な祝福を受けてのことなのです。
 ところがです。ハイデルベルク信仰問答は「わたしが今、永遠の喜びの始まりを心に感じているように、」とも言っています。魂は「直ちに」キリストのもとへ。身体は「やがて」キリストの御体と同じ形に。けれど、喜びは「今」「すでに」なのです。私たちの死後の祝福は、やがて来る遠い先の希望ではありません。私たちが今を生きる希望とされ、私たちの生き方を具体的に変えていく力となるのです。
 パウロの宣教の日々は壮絶の一言に尽きます。迫害に打たれ、あらゆる難に会い、命の危機すらも幾度となく経験しました。ところが彼は使命を投げ出すことはせず、進んで困難な中をくぐり抜けていくのです。なぜそこまで力強いのか。パウロは言います。「今の時の苦難は、やがて私たちに啓示される栄光に比べれば、取るに足りないと私は考えます。」(ローマ8:18)彼の挫けない信仰は、やがて啓示される栄光に根ざしているからです。彼の愚直なまでの主への信頼は、死の先に続くよみがえりの事実に由来しているのです。私たちも彼に倣うべきです。見えるものではなく、見えないものこそが私たちを自由にします。やがて来る再臨の希望を抱くことが、今ある困難を乗り越える力となるのです。

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