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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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190714 ハイデルベルク信仰問答 問59~61

エペソ2:8-9「信仰によって義とされる」

 59問には「これらすべてを信じることは、あたなにとって今どのような助けになりますか。」とあります。これは多くの人が宗教というものに期待するところではないでしょうか。「この宗教に入ったら何か得しますか?」世に宗教は沢山あるわけです。その中で何を自らの信仰として選び取るのか。その判断材料の一つに、どういう見返りがあるのかというのは、ある意味、正直な問いではないでしょうか。当時の宗教改革の時代も、カトリック、プロテスタント。プロテスタントでも、ルター派、カルヴァン派、再洗礼派、様々に争いが絶えなかったわけです。そんな中で、これまで教えられてきた教会の伝統ではなくて、この使徒信条で解説されるような聖書の内容自体を信じ告白するということは、いったいどんな益となることなのか。自分の旗色を決めるということが直に反対勢力との敵対を意味していた時代です。信じるということは文字通り、それに命を懸けるという意味だったわけです。人々が当然意識したのは、この教えを信じたらどんな得があるのか?という質問だったことでしょう。
 じゃあ、ハイデルベルク信仰問答はなんと答えるのか。それは「義とされ、永遠の命の相続人となる」という言うのです。この答えは当時の人々にとっては驚くべき答えです。信じるだけで義とされる?永遠の命の相続人となる?そんな馬鹿な話があるんですか?という話です。ここで思い出してほしいのは、宗教改革以前、人々は聖書を自力で読むことが叶わなかったということです。聖書はラテン語で書き写されたものが一部の聖職者と教会に保管されているだけであり、人々は教会のミサで、教会の長い伝統によって徐々に上書きされてきた教えを聞くしかなかった。ところが免罪符など余りにもこれまでの教えから逸脱したものが出てきて、そんなこと本当に聖書に書いているんですか?と、ルターを始め、一部の聖職者たちが抗議するようになったわけです。折しも時代はルネサンス。グーテンベルクの活版印刷技術によって、聖書がドイツ語で印刷されるようになって、ようやく聖書が信徒たちの手にも渡るようになって行った、その過程の時代なのです。人々はようやく、この初期の教会が認めてきた信仰義認という教えに向き合うこととなったのです。
 しかし「信じることで義とされ、永遠の命の相続人となる」とは、とても不安定な教えです。心は目に見えないからです。中世カトリックがキリストの贖いと共に、信者の行いによる義を語ってきたのもわからなくありません。行いは目に見えるからです。自分がこれだけ功徳を積んだと、確かな実感として確認できるからです。ところが、そういうわかりやすい義認の方法が否定されますと、それがどれだけ恵みであっても、かえって不安になるのです。そんな単純に救われるわけが無いでしょ。と思うわけです。私の罪はそんなに軽くないと思うわけです。どれだけ神が義と認めても私の良心が認めない。真面目に善行を積んできた者ほどそう思うわけです。けれど、ハイデルベルク信仰問答は「神は、わたしのいかなる功績にもよらず、ただ恵みによって、キリストの完全な償いと義と聖とをわたしに与え、わたしのものとし」と言います。つまり、信仰による救いを信じきれない人たち、自分の罪と真摯に向き合おうとしている人たちに向かって、大丈夫だと言うのです。なぜなら「神はキリストの償いと義と聖をご覧になられて、私たちの義としてくださっているから」です。私たちは神の義とはなれません。私たちの信仰は神を喜ばせるものではありません。けれど、神がキリストのゆえに私たちを義と認めると決められた。だから、あなたの良心があなたをどれだけ責め立てても、神の救いの確かさは変わらないのです。
 私なんて救われないと自分を厳しく戒める方がおられます。でも、イエス様は信じられるでしょう。イエス様の十字架は神の目に適われたことは信じられるでしょう。それで良いのです。私たちは自分を信じられなくても、イエス様を信じられるならそれで良い。なぜなら、私たちの救いの根拠は、私たちには一切なく、ただイエス様の義によるからです。

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