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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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190721 ハイデルベルク信仰問答 問62~64

マタイ20:1-16「愛されている子どもらしく」

 恵みのゆえに、信仰によって救われる。この教えは、宗教改革によって勝ち得たプロテスタント教会の核となる教えでありました。それまでの中世カトリックの教えは、神の前に義とされるのは信仰の良きわざによるという教えだったわけです。けれど、そうじゃない。私たちのわざじゃなくて信仰なんですよ。と、宗教改革者たちとそれに追従する人々は、大カトリック帝国に戦いを挑んだわけです。そして、彼らは勝利し独立して行ったのです。
 じゃあ聖書は、私たちに正しく振る舞うことを望んではいないのかと言いますと、そんなことは決してありません。ありませんが、こと救いに関して言えば、私たちの正しくあろうとする試みは問われていないんですよと言っている。なぜなら、神様の求める義とは、中途半端な義ではない完全な義。あらゆる点において妥協されることのない義だからです。どれだけ頑張ったとか、真面目だったとか、そういうことじゃない。完全な神の前に、自らの義を誇ることができるのは、あらゆる点で完全であり、神の律法に全く一致するものでなければならないのです。つまりです。信仰義認の教理は、イエス様を信じる者は救われるというだけを語っているのではないのです。イエス様への信仰以外のあらゆる行いは、決して私たちを義と認めることはできない。ということを教えているし、告白しているのです。
 問63は人間的に見れば大変非情です。私たちの善い行いが何の功績にもならないとバッサリ切り捨てるからです。それはただ恵みなのだと。これはどうでしょう。報酬は私たちの善い行いによる功績次第ですよ。と言われた方がよっぽど納得が行くところではないでしょうか。
 イエス様の例え話で、初めて聞いたときどうしても納得の行かなかった話があります。農園で働く労働者の話です。農場主が働き手を一日一デナリの約束で、朝の9時に募り、昼の12時、3時に募り、そして夕方の5時にも募りました。それぞれに手を挙げた労働者たちは農園で働き、夕方の6時になってその日の報酬を受け取ることになりました。最初に5時に来た者が報酬を受け取ります。その額1デナリ。他の者は活気づきます。彼らよりも長く働いた自分たちはいったい幾らもらえるのだろうか。ところがです。どの労働者にも同じ一デナリが手渡されるのです。契約通りと言えばそうなのですが、頑張った人とそうでない人が同じ報酬というのはなんとも納得がいきません。ですから問64にあるような「この教えは、無分別で放縦な人々をつくるのではありませんか。」という気持ちが良くわかるのです。それは最初から働く者のやる気を削ぐのではないか。という話です。一生懸命に働いて損した、という気持ちです。
 けれど、本当にそうでしょうか。彼らはこの報酬を受けるその時まで、労働の喜びを感じながら、約束の報酬を楽しみにして過ごしていたのではなかったでしょうか。声をかけてくれた主人の期待に応えるべく、精一杯働いたことではなかったでしょうか。報酬以上の充実を手にしていたのではなかったでしょうか。よく、死ぬまで好きなことやって、死ぬ直前にイエス様を信じたら良いんでしょ。という方がいます。けれどそれは非常に勿体ない。その人は主人のもとで過ごす充実を味わわないままこの世を過ごさなくてはなりません。約束された報酬を持たないまま焦りの内に日々を過ごさなければなりません。
 ハイデルベルク信仰問答は言います。「まことの信仰によってキリストに接ぎ木された人々が、感謝の実を結ばせないことなど、ありえないからです。」イエス様を信じ、その救いに入れられた人は、感謝の実を結ぶのです。つまり、その行いは報酬のための労働ではなくて、感謝の応答だと言うのです。私たちの行いに対する報酬なら、それは私たちの権利です。けれども、それは恵みのゆえにもたらされたのです。だから私たちは感謝する。だからこのお方の期待に応えるべく生きるのです。エペソ5:1には「ですから、愛されている子どもらしく、神に倣う者となりなさい。」とあります。まず愛されたのです。まずイエス様が贖いとなられ、まず神の子どもとされたのです。私たちがこの恵みに目を向けるなら、私たちの内に感謝が生まれます。そして感謝は私たちを突き動かすのです。

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