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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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190804 ハイデルベルク信仰問答 問69~71

ローマ6:3-10「血と霊による洗い」

 以前、松原湖のアウトキャンプで講師をさせていただいたときのことです。なんとアウトキャンプは最後までお風呂の時間がないんですね。キャンプが終わって、ベースキャンプ場に戻ってきて、そこで初めてお風呂に入る。これが気持ち良いんです。汚れが落ちていくのが目に見えてわかる。そして匂いでわかる。ぜひ若い人はあの感動を味合ってもらいたいと思います。ところで、ハイデルベルク信仰問答はまさにそのように私たちの外的な汚れが水で洗われるのと同じくらい確実に、私たちの魂の汚れはキリストの血と霊によって洗われると言っているのです。
 いやいやそもそも魂の汚れなんて洗えるものなのでしょうか。たとえばです。お堀やプールは綺麗にすることができます。水を全部抜いて、掃除をして、新しい水を入れれば綺麗になります。けれど、たとえば汚染された泉だったらどうでしょう。泉というのは滾々と水が湧き出るわけで本来はきれいなのですが、その源泉がたとえば工業用水ですとか、放射能とかで汚染されていたらどうでしょう。汚染された水が滾々と湧き出るわけです。幾ら水を入れ替えても、水を抜いた瞬間から、新しい汚染水が湧き出てくる。これはもう綺麗にしようがありません。
 イエス様はあるとき言われました。「人から出て来るもの、それが人を汚すのです。内側から、すなわち人の心の中から、悪い考えが出て来ます。淫らな行い、盗み、殺人、姦淫、貪欲、悪行、欺き、好色、ねたみ、ののしり、高慢、愚かさで、これらの悪は、みな内側から出て来て、人を汚すのです。」表面についた汚れなら洗い流すことができます。けれど、その汚れは、私たちの内側から出てくるのです。で、あれば、いったいどうしてこの汚れを綺麗にすることができるでしょうか。
 それは汚れた水を洗い流すほどの大量の水が溢れ出れば良いのです。聖霊による源泉です。それがつまり「キリストの血と霊とによる洗い」なのです。
 キリストの血と霊とは何を意味するのか。今日の箇所のローマ6:3~5は、それはキリストの死とキリストの復活だと言っています。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちは、キリストの死とキリストの復活にあずかるバプテスマを受けたのです。
 キリストの死にあずかるとは、どういう意味でしょう。それは古い自分の死を意味します。キリストが死なれたのは、罪深い私たちの身代わりとなられるためでした。私たちは本当なら罪のゆえに死んでいた者です。けれど、私たちの代わりに、キリストがその罰を受けて死んでくださった。それゆえ私たちの罪は赦されたのです。これが十字架の恵みです。死ぬべき者がキリストの犠牲のゆえに生かされたのです。ではキリストの復活にあずかるとは、どういう意味でしょう。それはつまり新しい命にあずかるということです。イエス様の昇天と引き換えに聖霊が来られたのです。聖霊が私たちに内住し、私たちに信仰をもたらされたのです。それゆえ、私たちは神の子とされ、神に従うことの幸いを見出し、キリストに相応しい者として生きることを願うようにされたのです。私たちは洗礼を受けることを通して、このキリストの死と復活のバプテスマに与ったのです。つまり洗礼は聖霊の源泉をいただいた私たちの聖化の始まりであるということでもあるのです。
 毎回松原湖キャンプで心に残るのは、子どもたちの賛美の姿です。不安や緊張。周囲を恐れる思い。そういった否定的な感情は彼らにはありません。賛美の泉が、心の中の色んな思いを洗い流しているのです。私たちは意識して、汚れを清めることはできません。ねたみを持たないように、高慢にならないようにと願っても、願った側からそのような思いに囚われます。それは向き合う方向が間違っています。心の中の汚れを洗い流すために、水を抜いて掃除しようとしても駄目なのです。抜いた側から幾らでも湧き出てきます。そうじゃない。その汚れを圧倒的に洗い流す膨大な量の水が溢れればいいのです。賛美の泉です。私たちの心が聖霊に満たされる時、初めて私たちはそのような思いを断ち切ることができるのです。

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