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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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190811 ハイデルベルク信仰問答 問72~74

Ⅰペテロ3:21「しるしとしてのバプテスマ」

 水の洗い、つまり洗礼についてですが、その水が特別だから清められるという誤解は意外と少なくありません。それは日本では神道のお祓いや禊ぎのイメージが強いからかもしれません。なぜなら神道でお祓いや禊ぎなどで使われる水は、お清めの水と言いまして、それ自体が罪や汚れを落とし清める力があると考えられているからです。実は同じような考えは、キリスト教でもありまして、たとえば正教会(オーソドックス)では、主教や司祭が十字架を水に浸して作る聖水を、飲んだり、食事に振りかけたりすることで、病の癒しなどの特別な恩寵が働くと信じられています。またカトリックでも、司祭によって祝別された水を聖水と呼び、それ自体に特別な神の力が宿っていると考えられています。実はこう言った、物質の神聖化と、それを受ければ清められるというオートマチックな救いに対して、そうじゃないですよ。と指摘しているのが、この72問というわけです。
 私たちが体の汚れを落とすように、罪や穢れを落とすことはそう簡単なことではありません。なぜなら、それは内側から溢れ出るものだからです。仮に特別な水だったとしても、その水があれば清められるという考え方は、あまりにも罪や穢れを甘く見過ぎです。物質を神聖化して、それを持って癒されようという考え方は、結果だけを便利に受け取ろうとする行為に過ぎません。長血の女性がイエス様への信仰の大きさゆえに「あの方の衣にでも触れれば、私は救われる」と考えたのとは、全く違います。
 罪の洗い清めは、そんなお気軽なものではありません。私たちの罪を洗い清めるために、命の犠牲が必要だったのです。本来罪のゆえに死ぬはずの私たちの代わりに、イエス様が身代わりとなって死なれました。私たちが今、一切の罪の負債を支払う必要がないのは、イエス様の血と聖霊のゆえなのです。この事実を抜きにして、私たちがどれだけ清い水に浸かろうと、有名な先生から洗礼を受けようと、決して罪を洗い流すことはありません。たとえばです。バプテスマのヨハネがヨルダン川で洗礼を授けておりました。ではその横で、誤って川に落ちた子どもは洗礼を受けたことになるでしょうか。水が特別であればなるかもしれません。けれどそうじゃないですね。ごった返す人混みの中で知らずの内にイエス様に肩がぶつかったとして、その人は癒されるでしょうか。癒しとはそういうものじゃないですね。イエス様は長血の女性にわざわざ人前に進み出るように求められました。ご自身に対する期待と信頼、そして信仰を求められたのです。ですから、水に浸かれば自動的に清められるのではありません。洗礼という儀式が清めるのでもない。血と聖霊とあります。事実として大事なのは主イエスの十字架の贖いと、聖霊の内住。そして、これを信じる信仰が問われているのです。
 では、洗礼はわざわざ水に浸かる意味はないと思われるでしょうか。大事なのは十字架と聖霊と信仰。ならばそれで十分じゃないかとです。けれど意味はあるのです。この水を用いることによって、私たちの罪がキリストの血と聖霊とによって除き去られることを、私たちは文字通り体験するのです。水の洗いは、霊の洗いのしるしです。水に浸かり、再び出る。私たちはこの儀式を通して、霊的に古い自分の死と新しい命に与ることを霊的に体験するのです。
 さて、いのちの樹教会はバプテスト教会の流れから生まれた教会ですので幼児洗礼はいたしません。けれど幼児洗礼をされた方に再洗礼をすることはしませんし、その理解は持っておくべきです。それは教会に与えられた子は契約の子という理解です。つまり、私たちは与えられた新しい命を教会の民として数え、教え導くことが求められているのです。ですから、私たちは赤ちゃんが理解できないからといって礼拝から追い出すことはいたしません。その子も一人の礼拝の民だからです。
 しかし、一方で考えなければならないことは、洗礼の持つ信仰告白という側面です。Ⅰペテロ3:21には、バプテスマは「健全な良心が神に対して行う誓約」とあります。イエス様はすでに割礼を受けているユダヤの民に、わざわざ洗礼を受けることを命じられました。割礼だけでは不十分だったからです。神の民に対して、誓約が大事だと言われるのです。
 ですから子どもであろうと、自らの意思ではっきりと信仰を告白するならば、その信仰は認められるべきです。たとえ幼児であっても、信仰を告白することには相応の責任が問われます。しかし、その上で告白される信仰を、私たちは突き返す必要はありません。その子の信仰として重く受け止め、その告白に相応しく歩めるように、私たちは教え導くのです。教会の民として与えられた子どもたちに対する私たちの責任が問われていくのです。

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