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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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190901 ハイデルベルク信仰問答 問80~82

Ⅰコリント10:19-22 「主の食卓に相応しい者は」

 この第80問は、実はこの信仰問答の初版では入っていなかったのですが、わずか数ヶ月でこの第80問が加えられ、さらに第3版で現在のような文言に改定されたという経緯があります。ですから、この第80問は当時のプファルツの信仰者にとって、これを欠いたままでは自分たちの信仰を正しく告白できないとの思いに至って、加えられた大切な問答であったということです。それは教皇のミサと主の晩餐におけるキリストの救済の根本的な理解の違いについてです。ミサとは、今もなおキリストを十字架に架ける儀式のことでして、カトリックではキリストの贖いは生涯変わること無く献げ続けられるものなのです。しかし私たちの理解は違います。キリストの贖いはただ一度きり、罪の完全な赦しをもたらしたのです。それは私たちの行いではなくて、ただ恵みによる救いです。だからこれを福音と呼ぶのです。当時のプファルツ領の人たちも、私たちも、このところは一歩たりと譲るわけには行きません。イエス様の贖いが日々献げられなければならないものだとするならば、罪の赦しは永遠に完成しないということです。毎度まいどミサの度に献げられるイエス様の贖いは、つまり完全ではないことを意味します。ならば救いとは誰の元にも届かないものになってしまいます。神の御子が贖いの死を遂げられたのです。唯一神の義に叶うお方が犠牲となられたのです。これ以上犠牲はいりません。もう充分です。ですから、私たちの聖餐は、キリストを十字架に架ける儀式ではなくて、キリストの贖いの御業を感謝し、神の名を褒め称える、キリストの十字架と復活の記念なのです。
 81問、82問は、この恵みである聖餐式にはどのような者が招かれているのかという疑問に対する答えです。私たちは聖餐式の折、黙祷の内に自らを吟味して聖餐に備えているわけです。では、その時、私たちは一体何を吟味し、何を覚えて、この聖餐に備えるべきなのでしょうか。たとえば、自分の最近の信仰生活を吟味しまして、自分には聖餐を受ける資格はないとおっしゃって、聖餐を辞退される方がおられます。それは一見、神の前に誠実で正直な信仰の姿に見えますが、本当にそうでしょうか。もしその生活が神に相応しくないと言って聖餐を拒否するのであれば、その人が再びこの聖餐に与る機会は果たしてあるでしょうか。「自分自身を吟味し」とは決して自分の生活を自分の良心に照らし合わせるということではありません。今心を煩わせている問題があるかないかによって決まるのではありません。聖餐は恵みなのです。つまり、これは、本来受けるに値しない罪深い者が、ただ主イエスの一方的な贖いのゆえに、招かれている恵みの食卓なのです。ですから私たちが自らの信仰生活を顧みて、神の目に相応しい歩みであったかと問うならば、それはやっぱり相応しくないのです。けれど相応しくないと知ることが大事なんだと。振り返れば拭い切れない罪の数々があり、抱えきれない不安があり、しかしだからこそ、それら一つ一つをキリストの十字架が覆い尽くすことに慰めを得るのです。この罪深い者を今この聖餐へと招くために、主イエスの贖いがあったという事実に私たちは救われるのです。
 自分の罪を嫌悪するその人こそこの聖餐を受けるべきです。残る弱さを嘆く方こそこの聖餐に招かれています。その人は神の聖さの前に自らを照らし合わせているからです。そうでなければ、罪に嘆くことなどありません。自らに悔いるなら、パンとぶどう酒を食すべきです。これこそがキリストと繋がる命の糧だからです。
 問82では、厳しい事実が語られます。不信仰と背信とを示している人々も、この晩餐にあずかれるのですか。答えはNOです。そんなに厳しくなくてもと思います。けれど明確な意思を持って神を否定し、教会を惑わすその人を曖昧に放置することは、神の契約を侮辱することであり、また、み怒りを全会衆に招くこととなるのです。そしてそれは、その人に悔い改めの機会を与えないということでもある。来週はこの教会の持つ鍵の権能についてご一緒に学びます。教会戒規という重い問題です。けれど、これは、罪を明確に指摘し、悔い改める機会を与えることだと理解しておきたいと思います。教会には罪を指摘し、悔い改めを促し、信仰に導く責任があるのです。

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