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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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190908 ハイデルベルク信仰問答 問83~85

マタイ16:15-19 「鍵の権能」

 ペテロというのはギリシャ語で「岩」という意味の言葉です。イエス様はヨハネの子シモンに「岩」という呼び名を付けられました。そして、この「岩の上に、わたしの教会を建てます。」と告げられました。ですから言葉通りに取れば、ペテロの上に教会を建てると言ってるように聞こえます。けれどその意味するところは「あなたは生ける神の子キリストです。」と告白したその者たちの上に。つまり、イエスを主と告白する全てのキリスト者の上に、主の教会を建てると言われたのです。そしてその教会に、「わたしはあなたに天の御国の鍵を与えます。」とおっしゃられる。天国を開け締めする務めが教会には委ねられているのです。
 それは具体的には「聖なる福音の説教とキリスト教的戒規」であるとハイデルベルク信仰問答の問83は言っています。福音の説教が天の御国の鍵の一つです。福音というのは主の救いの知らせです。けれど、同時にそれは主の滅びの知らせでもあるのです。パウロはⅠコリント1:18で「十字架のことばは、滅びる者たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力です。」と言っています。福音は、キリストの贖いによる罪の赦しの知らせです。しかし、このことを理解するためには、聞く者たちがまず自らが罪人であり、滅ぶべき者だと受け入れなければなりません。ですからある人達は福音を聞いて信仰に至りますが、ある人達は拒絶します。それゆえ、福音は救われる魂と滅びる魂とを選り分けるのです。この務めは何と重たい責務でしょう。私たちがその人の救いを願って福音を語るとき、それは同時にその人の滅びを確定させるかもしれないのです。黙っておいたほうが良いんじゃないかとさえ思ったりもします。けれど、忘れてはいけないのは、救い主を信じること以外に、全ての人は滅びるしか無いという事実です。
 もう一つの御国の鍵は、キリスト教的戒規です。教会はこれによって教会全体の信仰を守り通す責任があるのです。教会の交わりにおいて、意図的にその交わりを攻撃し、混乱に陥れようとする人たちがいないとは限りません。私が聞いたある教会では、教会に長く仕え役員の経験もされた方が、何年も経って後、異端のメンバーであると発覚しました。もう何年も共に過ごしてきたのですから、心情的には気の合う仲間です。けれどこのような場合、先延ばしにして事を曖昧にするほど、教会全体に被害が広まります。教会は覚悟を持ってその人を閉め出す必要があるのです。
 また、教会員が著しく神の教えから離れ、その忠告を全く聞き入れようとしないなら、やはり教会戒規を執行する必要があります。しかしそれは、その人を閉め出すためではありません。むしろその人を立ち直らせるため。教会戒規はその人が自らの過ちに気付き、再び主の交わりを回復するための恵みの手段でもあるからです。私たちは救われて尚、罪を引きずる弱い者です。決して完全ではありません。ですから私たちは失敗します。過ちを犯します。それはそうなのです。だからこそ私たちはその度に、自らの罪を認めて、真摯に向き合い、悔い改め、主イエスの贖いの御業に立ち返る必要があります。その手助けが教会戒規なのです。「キリスト教的」とあることに注目すべきです。つまりこれは「罪の赦しが約束された」戒規なのです。ローマ5:8「しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。」罪の告白の前に、罪の赦しが約束されている。これが神の愛です。教会戒規も同じです。その人が真実な悔い改めを持つなら、その人は再びキリストとその教会の一部として受け入れられることが約束されているのです。教会戒規はそれを受ける人のあり方だけが問われるのではありません。教会は戒規後のその人をしっかりと赦すことが問われるのです。(第2コリント2:6~8)大事なのは愛と責任を持ってこの二つの鍵を行使することなのです。

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