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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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190915 ハイデルベルク信仰問答 問86~87

ローマ12:1-2「善い行いに励む生涯」

 「恵みによりキリストを通して救われているのならば、なぜわたしたちは善い行いをしなければならないのですか。」とあります。救われるために私たちの行い云々は問われないのに、なぜ救われた私たちは善い行いをするようにと聖書は語るのでしょう(テトス3:14他)。
 それは、救われた私たちが聖霊によって本来の神のかたちへと変えられる者だからです。神のかたちとしての本質を毀損した私たちが、再び神のかたちを取り戻すのです。問86は私たちが善い行いをするのは、神への感謝の表明だと言います。神の恵みを知れば、当然のこと神に感謝するし、神のみこころに応じる者になりたいと思うのです。つまりこれは信仰者としての自然な成り行きなのです。ですから善い行いをすることは、しなければならないという信仰者の義務ではなくて、恵みに生きる信仰者としてのあるべき神への応答の姿であり、私たちは聖霊によってそのように変えられるのです。
 私たちがまさにそのように変えられるなら、人々にとってこれほどインパクトのある証はありません。神を知らない人にとっての善い行いは、何かしらの見返りを求めるものでしょう。評価を得るため、報いを得るため、満足を得るため。だから善い行いに励むのです。けれどキリスト者はそれを求めません。なぜなら、その報いは先に得ているからです。結果を求めての行いではなくて、結果を受けた上での行いなのです。私たちは恵みに突き動かされて生きる者です。そして、そういった信仰者の生き様は、信仰を持たない人にとって、なんとインパクトのある生き様でありましょう。
 さて、善い行いとありますが、以上が私たちの聖化の歩みです。事実私たちは、そのように生きたいと思いますし、日々そのように励んでいるわけです。神のみこころに適う者でありたいと心から思います。しかし、一方で、そのようになれない自らに嘆きもするのです。神を知り、主イエスに似た者となりたいと願うほどに、私たちは何か不自由で窮屈な生活を強いられているような錯覚を覚えたりするのです。私たちは時に思います。神を知らない方が、もっと楽だったんじゃないかとです。罪なんて気付かない方が、悩まずに済んだんじゃないかとです。いえ、本当は違うのです。神を知らず、全て他人との比較によってでしか物事を測れないというのは、それは恐ろしいことです。他人に受け入れられるように必死に媚びて、装って、頑張って、それでもより優れた人が現れれば、立ちどころに居場所を失って捨てられてしまう。そういう他人依存に生きることはどれほど不安定で、心細いことか。そうではなくて、決して変わることのない永遠の神のもとで生きることの幸いは計り知れない恵みです。それはわかっているのです。けれど、信仰を持てば持つほどに浮き彫りになる自分の罪深さ。私たちは素直に感謝して過ごせない信仰生活の現実を経験するのです。
 しかし、私はそれで良いのだと言いたいのです。まさにそれこそが聖化の歩み。それを知るための善い行いなのだと思うのです。つまり、私たちは聖化の歩みで、確かに神のみこころに適う者とされていくのですが、それは、決して神になるための歩みではないということです。それは神を知る歩みです。神のみこころに応える歩みです。ですから、神を知り、善い行いに励むほどに、私たちは自らが神ではない事実を知るのですが、それは神と人との適切な距離を教えるものであり、それゆえ私たちはより一層、神のみこころに従う者とされるのです。聖化の先に栄化があると言いますが、それは決して私たちが神になることではありません。私たちが完全に神の栄光に生きるようにされるということです。
 聖化の歩みは感謝と悔い改めの歩みです。そのことで私たちは神へと立ち返るのです。ですから信仰生活に悩んで上等であります。自分の思い通りに生きることは、自由で、気楽で、悩みない人生のように見えるでしょうか。違います。自分の思い通りに生きることは、つまり罪に身を委ねて生きるということに他なりません。それは「みだらな者、偶像を礼拝する者、姦通する者、泥棒、強欲な者、酒におぼれる者、人を悪く言う者、人の物を奪う者」に繋がる生き方です。そしてその結末は、決して祝福されないことは忘れるわけにはいきません。

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