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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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190922 ハイデルベルク信仰問答 問88~91

ローマ6:1-11 「古い人の死滅、新しい人の復活」

 聖化の歩みは、感謝と悔い改めの歩みだと先週確認いたしました。問88は悔い改めや回心というものは、「古い人の死滅と新しい人の復活」の意味だと言っています。エペソ4:17-19には「あなたがたはもはや、異邦人がむなしい心で歩んでいるように歩んではなりません。彼らは知性において暗くなり、彼らのうちにある無知と、頑なな心のゆえに、神のいのちから遠く離れています。無感覚になった彼らは、好色に身を任せて、あらゆる不潔な行いを貪るようになっています。」とあります。無知と頑なな心のゆえに、神のいのちから離れ、無感覚になり、好色に身を任せて、あらゆる不潔な行いを貪るようになっている。そういう自らの欲望に身を委ねきった人のあり様。自分中心の生き方。これが古い人であり、アダム由来の罪人の姿であり、そしてそれは間違いなく私たちの内にも根深くある罪の性質でもあるのです。私たちは、自分の知恵や経験を最善と信じて疑いません。自分の生き方を当事者としてでしか見られません。その結果、神のいのちから遠く離れているなど、想像することすらできません。失敗して、反省することはあります。自分の言動を後悔することはあります。あんなこと言わなければ良かった。もっとこうしてあげれば良かった。けれど、反省し、後悔しても、すぐに喉元を過ぎて同じことを繰り返してしまいます。それが悪いことだとわかっていても、いじめが決して無くならないのはなぜでしょう。それは、他人がいじめられていることが自身の保身に繋がるからです。なんだかんだ言っても自分が可愛いのです。けれど、それぞれが自分を優先している限り、問題がなくなることはありません。
 古い人とは、自分中心の生き方をする人です。これは、ちょっとやそっと、その時その時に間違いを後悔する程度では、どうすることもできない私たちの本質的な問題です。結局の所、私たちの中心、心の王座に私が座っている限り、これはどうしようもないのです。悔い改めとは、単なる個々の言動や失敗を反省することではありません。私たちの生き方を変えるということです。私たちが自分中心に生きることの過ちを認め、神をその王座に迎えること。これこそが悔い改めであり、回心なのです。
 神を中心として生きる者は「心から罪を嘆き、またそれをますます憎み避けるようになる」のです。なぜなら、その罪は神が憎まれるものだからです。神に喜ばれることを願う者は、必然と罪を憎むようになるのです。もちろん、だからと言って罪を完全に切り離すことは難しいかもしれません。パウロも「したいと願う善を行わないで、したくない悪を行っています。」と言っています。それは信仰者の現実です。けれど、それを憎むことはできます。自らの罪の本質を認め、心から嘆き、憎み避けるようになる。これこそが古い人の死滅なのです。
 新しい人の復活とは何でしょう。ここでは私たちのからだのよみがえりを言っているのではありません。90問には「キリストによって心から神を喜び、また神の御旨に従ったあらゆる善き行いに心を打ちこんで生きる、ということです。」とあります。これは神を喜び、神のみこころに従って生きる。という信仰者としての新しい生き方のことです。古い人は私がどうしたいか、私にとってこれは損か得か。私の喜びこそが生き方の指標でした。けれど、新しい人は違います。神はどうされるのか。神は私に何を望んでいるか。どうすれば神を喜ばせることができるだろうか。これが新しい人の指標です。古い人の歩みを捨て去ることは難しいです。けれど私たちが新しい人の歩みをするとき、つまり、神のみこころに目を向けるとき、私たちは初めて自分自身の損得や状況に左右されずに生きることができるのです。
 これは聖霊によってもたらされる内よりの変化です。ですから、このことは祈りと御言葉によらずしては決して起こりえません。いつの間にかそうなっているという類のものではありません。聖霊は御言葉をもって私たちの罪を明らかにし、祈りをもって罪を嘆き、憎み避ける心を育んでくださいます。そしてそれゆえ私たちの目をキリストの贖いの御業へと導き、神を喜ぶ者へと変えてくださるのです。

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