FC2ブログ
プロフィール

Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

最新記事
カテゴリ
月別アーカイブ
最新コメント
検索フォーム
リンク
QRコード
QR

190929 ハイデルベルク信仰問答 問92~95

エレミヤ17:5-10「主に信頼することの幸い」

 どのように神に感謝するか。この信仰生活の命題に、ハイデルベルク信仰問答は十戒を講解いたします。何となく戒めと聞きますと、不自由なイメージがあって、それがどう感謝につながるの?と思ったりもいたします。けれど一方で、じゃあ、戒めが何もない世界が果たして自由なのか?という問もあるわけです。たとえば、サッカーの試合で中々勝てないからと言って、うちのチームだけは手を使わせてもらおうだとか、負けているチームのサッカーゴールは小さくしようだとか、そんなことを許すと、これはもう競技としての面白さは無くなってしまうわけです。ルール(戒め)というのは、それが無くなれば自由になるものではありません。それが無くなれば無秩序になる。そして無秩序というのは、多くの場合、そこに不自由をもたらすものなのです。たとえば、軍事クーデターが起こって、政府が崩壊し、無政府状態に陥いれば、それは自由だ!などとはとても言えません。何が起きるか誰にもわからない無秩序な社会では、私たちは恐ろしくて町を歩くことすらできません。秩序が保たれるから、私たちは安心して過ごせるのです。ですから、私たちの罪の自由を制限することで、むしろ私たちはむしろ自由に振る舞えることがあるのです。そう考えますと、「戒め」というのは、私たちを縛り付けるものではなくて、むしろ私たちに留まるべき所を示すものだと言うことがわかるかと思います。
 戒めということについては、なぜ善悪の知識の木の実が用意されたのかを考えればよくわかります。それは神が私たちの自発的な意思による信仰を望まれたということであり、戒めを持って、人の毎日がどれほど恵みであり感謝であることかを教えるためであり、そして、思い通りにならない1本があることで、私たちは神ならぬ身の丈をしるためにでありました。その1本が、彼らの信仰を表明させるのです。私たちにとってのこの一本が、つまり十戒なわけです。これは救いの条件ではありません。神の民とされた私たちが、神との関係を正しく築くために大切な道しるべです。
 主が私たちに求められるところを、問94であれこれと記されておりますが、一番言いたいのは「すなわち」から続くところです。「すなわち、わたしが、ほんのわずかでも、神の御旨に反して何かをするくらいならば、むしろすべての被造物の方を放棄する、ということです。」神の御旨に反してまでの価値は、どんな被造物にもないと言っています。比べるまでもないんだと。私だけで十分。私だけを頼りなさい。と主なる神が言っているのです。
 ハイデルベルク信仰問答が第1戒の区分を「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。」という前文を加えていることに注目すべきです。神はすでに私を導き出されたお方なのです。わたしはあなたを奴隷の家から導き出した神であるから、あなたたちはわたしに従って生きなさい。と言われる。私たちがこの戒めを守ることが求められるのは、このお方が私の主、私の神となってくださったからに他なりません。
 ですから、私たちは、ほかの神々を認めることはできません。それはまことの神のまなざしを裏切ることだからです。これは不自由でも何でもありません。もし神が、他の神々があってもいいよ。と言うならば、それは神が私に無関心である証拠です。けれど、神は他の神々があってはならないと言われたのです。つまり、神が私との関係に関心を持ってくださっているということです。神は私を労り、私に気をかけ、私を特別の存在として認めておられるのです。赤の他人のことは気になりません。他人ではないから気になる。神はあなたを他人ではなくて、家族だと言っておられるのです。

コメント

非公開コメント