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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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191103 ハイデルベルク信仰問答 問101~102

ヘブル6:13-20 「約束の保障」

 前回十戒の第三戒「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。」という戒めから神の名を私物化して利用しないということ。しかしそれは口を閉ざすことではなくて、むしろ積極的に主の名を呼び求め礼拝することだと学びました。今日は、主の名を唱えるもう一つのケース。主の名によって誓うということについてご一緒に学びましょう。
 ヘブル6:13には次のようにあります。「神は、アブラハムに約束する際、ご自分より大いなるものにかけて誓うことができなかったので、ご自分にかけて誓い、」ここに、誓いというものの性質が記されています。つまり、誓いとは、自分より大いなるものにかけて誓うものだということです。ここが単なる約束と誓いとの違いです。
 約束というのは、双方間の信頼で結ばれた決まりごとです。ですから、自身が信頼されていなければこれは成り立ちません。そんな時、自分以外の、より信頼できる第3者を前にして宣言することで、相手の信頼を得ようとする。これが誓いです。この誓いを破れば、誓いを立てた対象との関係を失っても構わない。誓いの対象との関係を担保として、相手の信頼を得ようとする行為です。ですから当然、失うときのリスクが大きいほど信頼を得ることができるというものです。そして神の名で誓うということは、それが破られた時、神との関係を失っても構わないという宣言でもあるのです。
 誓うということはそれほど重たい責任を負うのです。先祖伝来の土地に誓うとか、努力して勝ち取ったこの金メダルに誓うとか、名探偵だった死んだおじいちゃんの名に誓うとか、私たちの周りには、そのような誓いで溢れています。けれどそれらは、突き詰めて行けば、本人の意思次第と言えます。土地も、金メダルも、死んだおじいちゃんも、私が約束を破って後、実際にその誓約に従ってそれらを失うのかと言えば、それは本人の意思次第。それは約束に対する本人の決意表明以上の意味はありません。けれど、神の御名に誓う場合は違います。生きて働かれる神がその誓約が履行されることを見守られるのです。そして、もしその誓約が不義に終わる場合、ただ独り心を探るお方が、その偽りを罰してくださるのです。約束の相手や自分の決意は出し抜くことができても、神を出し抜くことはできません。神の名で誓約することが、他のそれとは全く違うものであることがわかるかと思います。聖人や被造物では十分ではありません。神の名によって誓約することが、私たちの偽わりを阻み、誠実に歩む覚悟を育むのです。
 さてヘブル書には、神がアブラハムの祝福をご自分にかけて誓われたということが記されています。神はこの世界を言葉一つで造られました。その同じ言葉で交わされる約束は、疑う余地の無い確かなものです。けれど、それでも神は誓ってくださったのです。もしわたしがこの約束を違えることがあれば、神である自分との関係を失っても良い。つまり、わたしは三位一体の神であることを捨てても構わない。という意味です。もちろん、神には「もし」ということなどあり得ないわけで、神であることを脅かすことは一切ありません。そのようなあり得ない状況をわざわざ想定して、その時にはと、ご自身の名をかける。神であることを担保にする。それほどまでに、この約束が確かなものだとアブラハムに宣言されるのです。もちろん、これは私たちにも同様である神のご覚悟です。
 この神を前に、私たちはどのような態度であるでしょう。誓うことにはリスクが伴います。ならば、誓わない。約束などしない。とするのも一つでしょう。けれど、覚悟を問わない私たちで良いのでしょうか。誓約しないのは、約束を破る可能性を担保したいからです。しかしそれは神に対しても人に対しても、あまりにも無責任です。私たちは誓約のゆえに振るわれます。神はみだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれません。しかし、それ以上に、私たちはその誓約のゆえに留まれる。主がその覚悟を良しとされ、その決意を見守ってくださるということを覚えておきたいと思うのです。

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