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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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191117 ハイデルベルク信仰問答 問103

ヘブル4:9-11「神の安息に入るために」

 一時話題となりましたブラック企業は、SNSの時代になって、随分と鳴りを潜めるようになりました。けれど、あくまでもそれは表面的にであって、実際は安息なんて夢のまた夢。みんな頑張ってるのに自分だけ休めない。辞められない。周囲への気遣いが私たち自身を追い詰めていくのです。私たちはいつの間にか、休むことは悪だ、という考えが染み付いています。休むことは同僚に悪い。世間にも悪い。そして自らの良心に照らしても悪い。ですから、よっぽどの理由がない限り休めない。ところが聖書は、休むことは神の命令と言います。私たちはもっと積極的な意味で「休むこと」を捉え直す必要があるのです。
 安息日規定というのは、モーセの時代に、ユダヤの民が出エジプトを果たし、神の民として正式に契約を交わし、その具体的な生き方の指針として与えられた十戒の一つです。ですから、この十戒は、そもそも奴隷生活をしていたユダヤ人に向けて与えられた新しい生き方です。それはつまり、エジプトにいるとき、彼らは持たざる者であったということです。休むな。と言われ続けてきた民が、神によって安息せよ、と命じられる。人にとって安息を持つということは必要不可欠なんだと教えられるのです。
 しかしながら戒めは、ただ単に休めとだけ言っているのではありません。出エジプト20:11に「それは【主】が六日間で、天と地と海、またそれらの中のすべてのものを造り、七日目に休んだからである。それゆえ、【主】は安息日を祝福し、これを聖なるものとした。」とあるように、安息の前には神の創造がありました。神様ですから、創造を一日で終わらせることもできました。けれど、敢えて神様は六日間かけられます。そして一日一日、その終わりにご自身のわざをご覧になって良しとされました。その日の働きを満足して終える。これが大事です。労働は本来、その一日を満足して終えるためのものです。神とともに生き、神の役に立ち、神から良しとされる。そのための役割が与えられているのです。神とともにいたアダムは園を耕し、守る働きをいたしました。創造の世界に対する役割を持っておりました。そして彼らはそのことに生きる意味を見出していた。私たちも同じです。私たちの労働は単なる義務ではありません。その働きを通して、神と関わり、世界と関わり、人々と関わり、私たち自身の存在する意味を見出すことができるのです。
 さて、十分な労働とその満足を得て、迎える七日目に神はその働きを休まれます。「安息日を心に留め、これを聖別せよ。」つまり、休むことは聖なる日を持つための下準備だということです。休んで終わりじゃない。休むことの先があります。むしろそこが大切です。
 申命記の5:15に、安息日には奴隷であったこと、そこから連れ出されたことを覚えていなければならない、とあります。私たちに当てはめるなら、他人の評価ばかりに一喜一憂していた以前の自分。やがて来る死に恐れることしかできなかった自分。神の裁きを知らず、罪に無自覚であった、罪の奴隷であった自分を覚えていなければならない、ということです。そして今は、神がそこから導き出してくださっている。この恵みを覚えるために、私たちは今、係わっている仕事。抱え込んでいる悩み。日々置かれている日常から離れなさいと命じられているのです。
 ここまで理解して、初めて、このハイデルベルク信仰問答の103問です。色々ありますが、一言で言うと、意識して感謝して礼拝する。ということでしょうか。週の初めに敢えて私たちの日常、自らのわざを休んで神を礼拝するということに意味があるのです。日常のままに過ごしては駄目なのです。私たちを思い煩わせる日々の出来事に埋もれてしまってはいけないのです。それらは神の恵みを見失わせるのです。出エジプトの31章17節には「これは永遠に、わたしとイスラエルの子らとの間のしるしである。それは【主】が六日間で天と地を造り、七日目にやめて、休息したからである。」とあります。休息とは深く息をつくことです。私たちは週のはじめにこの礼拝に集い、そこで深く深く息をつく。深く息をつくのは、もちろん、たくさん息を吸うためです。聖霊の息吹です。そして、心騒いだり、思い煩って、乱れた脈を整えるのです。ですから安息日はもはや週の終わりではなくて、新しい恵みの週の幕開けとなるのです。

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