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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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191208 アドベント第2主日 イザヤ9:1-7 「平和の君と呼ばれる」

イザヤ9:1-7 「平和の君と呼ばれる」

 羊飼いたちのもとに現れた御使いたちは賛美します。「いと高き所で、栄光が神にあるように。地の上で、平和がみこころにかなう人々にあるように。」イザヤが語った「平和の君と呼ばれる」という預言の成就としてイエス様が来られたということは、聖書が語るところです。けれど、ユダヤ人にとってイザヤの語った預言は、虐げられてきた争いの歴史を終わらせる平和の君主として待望されて来たのです。なのに現実には、イエス様はユダヤに政治的な平和をもたらされることは無かったのです。これは預言が成就しなかったということでしょうか。それとも平和の君は、また別に、これからやって来るのでしょうか。
 この矛盾は、そもそもの平和の理解が違っているのではないかと思うわけです。平和とはいったい何でしょうか。戦争のない世の中のことでしょうか。ヨーロッパがローマによって統一され、最も繁栄した時代をパックスロマーナ(ローマの平和)と言います。しかし、その平和はローマから見た平和。多くの血の上に築かれた平和です。ユダヤ人の血も流されました。そこには多くの憎しみや恨みも生れました。ですからそれは、一方からは平和のように見えても、もう片方から見れば、平和でも何でもないのです。日本の太平洋戦争の大義名分は、アジア諸国が西洋の支配を脱却し、大東亜共栄圏という一つの平和を築くためでありました。けれどそのように一方的に押し付けられた平和が、本当に平和だったかと言うと、それは全く見当違いな言い分だったわけです。片手に拳銃を持ちながら、片手で握手をすることが平和だとは到底思えません。けれど、それが賢い大人の選択だと説き伏せるのがこの世の中ではないでしょうか。最高ではなくても、最善を尽くすべきと言わんばかりの理屈です。それ以上は望むべきではないと言うのです。
 いえ、そんな大層な世界を見なくとも、私たちの日常を見れば、平和というものが如何に難しいかがわかります。たとえば私たちの家庭の中に平和はあるでしょうか。学校で、職場で、教会で平和はあるでしょうか。大人であれば、表面的には仲良く過ごすことはできるかもしれません。争いごとが表面的には起こらないということはあり得ます。けれど、必死に取り繕って、おべんちゃらを言って、別れたとたんにため息をつく。こう言う関係を本来平和とは言いません。
 聖書は何と言っているでしょうか。エペソ2:14-15には、「キリストこそ私たちの平和です。キリストは私たち二つのものを一つにし、ご自分の肉において、隔ての壁である敵意を打ち壊し、様々な規定から成る戒めの律法を廃棄されました。」とあります。つまり、平和とは汝の敵を赦すこと。そして己の正義を振りかざさないことだと言っています。そしてまさしくそのような平和をもたらされるためにイエス様は来られたのです。
 私たちは相手から不義理を受けたとき、どうすれば相手を赦すことができるでしょう。赦したつもりでも、後になって怒りがぶり返すとすれば、それは実際には赦せてはいません。相手がどれだけ謝罪しても、自分が如何に優位に立とうと、自分に対する否定的な言動を赦すということは、そう簡単にはできません。いえ、無理です。それは自分が被害者であり続ける限り、決して赦せないのです。そうではなくて、自分こそが赦されざる者である。自分こそが罪人であるということに、本心から気付き、絶望し、尚、そこに赦しを得るときに初めて、人は赦されたこの経験から、人を赦す者へと変えられるのです。
 だから、この平和は、御自分の肉において、つまりキリストの贖いによってのみもたらされるのです。赦すことは私たちの努力や決断によってできることではないのです。それは私たちの絶望の先にあるのです。私たちが自分に死ぬ、その時に、私を赦すためにご自身をも捨てたキリストの愛に触れられるのです。

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