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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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2015/07/05 ヘブル11:13-16 「天の故郷にあこがれて」

ヘブル11:13-16 「天の故郷にあこがれて」

 故郷というものは誰にとっても特別なものではないでしょうか。電車に乗っていて、どこかから地元の方言を聞く。もうそれだけでテンションが高くなったりいたします。同郷の人に会って、共通の知人であったり、地元の学校の話題になりますと、特に盛り上がります。初めて会った人も、もう旧知の仲のようです。この感覚は、恐らくは私だけではないかと思いますが、いかがでしょうか。
 なぜ故郷は特別なのでしょうか。それは故郷が自分の出発点だからです。そして帰るべきところだからです。今でこそ、故郷を出たまんまということはザラですが、一昔前、地方出身者が都会を目指すのは、最終的には故郷に錦を飾るためでありました。成功して、一旗揚げて、そして胸を張って故郷に帰る。これが地元を離れる者たちの夢だったわけです。しかし都会での現実は、そんなに単純ではありません。沢山の挫折や困難。いつしか本来の決意も忘れて、ただその日を乗り越えるのに精一杯な毎日。そんな時に、故郷の思い出は、私たちをそもそもの原点に立ち返らせてくれるのです。故郷を出るときにかけられた仲間の応援。自分自身が立てた決意。自分が今、何のためにここにいるのかを思い出し、もう一度頑張ろうと立ち上がらせてくれるのです。ちょっと時代がかった想像でしょうか。けれど、今日の箇所で「天の故郷にあこがれていた」というとき、それはこのような意味で使われているかと思います。つまり、そこは私たちの出発点であり、本来あるべきところであり、そしてやがて帰るべきところだということです。
 旅はスリリングで、新しいことに満ちて、楽しいものですが、それはやがて帰ることが決まっているから楽しいのです。もしも旅の道中で事故や事件に巻き込まれて、いつ帰れるかわからないということになれば、これはもう楽しいどころの話ではありません。
 ノアにせよ、アブラハムにせよ、彼らの信仰の決断はとてつもなく大きなものだったかと思います。彼らにとって神に従うということは、文字通り全てを捨てることを意味していました。家財や仕事や人間関係、それに平和で気楽な毎日までもです。先ほど旅は帰るところがあるから楽しいと言いました。けれど、彼らの旅は、帰るところを失う旅です。故郷には二度と帰らない旅です。さぞかし心寂しく、後悔の旅だったでしょうか。しかし彼らは後ろを振り返らず、前に向かってひたすらに歩み続けました。なぜでしょうか。それは彼らが、地上での生涯を天の故郷を目指す長い旅であると理解していたからです。この旅には必ずゴールがあるということを知っていたからです。
 ゴールのない競争はこれほど辛いことはありません。帰るべきところのない旅は少しも楽しくありません。世間では、特に若い人たちは、将来に何の希望も持てずにいます。希望のない世の中だから、とにかく今を楽しもう。そういう世の中です。それは、将来が何も約束してくれないからです。どれだけ将来のために汗を流しても、実際にはどうなるかわからない。この人生の旅の終着点がどこだかわからない。多くの人にとって確かなのは今だけです。だから、今を楽しむ。けれど、それは不安を先延ばしにしているだけです。私たちはこの人生という長い旅のゴールを知っておかなければなりません。ただ闇雲に、その日暮らしでいるだけでは、いずれ行き詰って、心が折れてしまうのが関の山です。ゴールを見定めるからこそ、今のあり方が固まるのです。
 キリスト者は神に属する者として新しく生まれ変わった者です。いのちの書に名前が書き記され、天国人として手続きを終えた者です。ですから私たちにとって地上の歩みは期間限定の旅です。私たちは天の御国に帰ることが決まっている。それを知っているからこそ、今のときの苦しみに耐えることができる。神に従うことができるのです。

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