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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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200119 ハイデルベルク信仰問答 問105~107

コロサイ3:12-17 「殺す者から生かす者に」

 「殺してはいけない」この戒めを聞いた最初の民は、エジプトで奴隷の身分であったイスラエル人でした。人が物のように扱われる世界。強い者が正義の世界。そういう弱肉強食の世界にあって、神は、ご自身の民にはそのようであってはならないと命じられるのです。なぜなら、地上における優劣など、神の前ではあって無きの如くで、私たちは神の前には等しく罪人に他ならないからです。今、神は一つの民を選んでご自身の民としようといたします。けれど、それは彼らが特別優秀だったとか、他の人々よりも清らかな人たちだったとか、そういうことではありません。それはただ神の憐れみです。強いて言うなら、彼らが弱者だったからです。彼らが神の御前にひれ伏すことができる弱い者だった。だから、彼らは選ばれたのです。彼らの間に、主人はただお一人、全能の神がおられるのみです。神の他に何者にもひれ伏すことはできず、神に並んで人をひれ伏させることもできません。今までは殺し、殺されることが当たり前でありました。けれど、今彼らは等しく神の民なのです。私が神の民とされたと信じる者は、目の前にいる人もまた神の民とされた一人と信じる必要がある。それゆえ殺してはいけないのです。
 ですから、殺してはいけない。という戒めですが、これは単に相手の命を奪うということだけを禁じているのではありません。神が与えたその命の存在を否定するいっさいのことを、禁じています。ハイデルベルク信仰問答は、そしったり、憎んだり、侮辱したりすることを、殺すことと同じに捉えています。なぜならその心の内には変わりがないからです。どれも相手の存在を否定しているのです。もちろん、殺すというのは、その行き着く先です。けれど、私たちは殺すという最終的な手段を取っていないだけであって、日々どれだけ多くの存在を否定し、見下し、殺していることかと思わされるわけです。そして、その私たちの内にある殺人の根を、神は憎んでおられるのです。
 私たちもできることなら、そういう憎しみを断ちたいと思います。けれど、それは衝動的で、止めなく湧いてくるのです。カインがアベルを殺したのは妬みからでした。真の神に喜ばれたい。その正しい願いすらもが、殺人の衝動に取って変わったのです。であるならば、いったいその衝動をどうやって防ぐことができるのでしょうか。憎しみが湧いてくるのは、それなりの理由があるのです。傷付いた苦い経験があるのです。
 また私たちは正義感から、人を殺すこともあります。ニュースなどで悲惨な事件が報道されますと、私たちは怒りが湧いてきます。人の命を何だと思っているんだ!そして同時に思うのです。こんな酷いやつこそいなくなればいい。死んでしまえばいい。・・・であれば、この殺人犯と私の差は、実行したかしなかったかの差でしかありません。神を知らない人なら、この差は決定的です。けれど、全てを承知であられる全能の神の前で、この差はあって無きの如きです。それは隠れた殺人に他ならないからです。
 どうすれば、良いのでしょう。たとえば、人里を離れて、一人無人島に住めば良いのでしょうか。しかし、ローマ 13:9を見ると、「殺してはいけない」という命令は、「隣人を愛する」という積極的な命令に要約されるとあります。つまり、関わらないようにするというのは十戒の教えとは間逆なのです。御言葉は隣人に関われと言っている。ですから、私たちは「殺してはいけない」という私たちに自重することを命じるこの教えから、むしろ積極的に、「愛、忍耐、平和、寛容、慈愛、親切を示し、その人への危害をできうる限り防ぎ、わたしたちの敵に対してさえ善を行う、ということ」だと受け止めなければならないのです。
 これはとても実行不可能なことのように思います。確かに私たちの努力では無理でしょう。鍵となるのは、私たちがどれだけ自分に絶望しているかです。愛そうと思っても愛せない。関わろうと思っても関われない。自分で、何かができるということに、絶望し、諦めた先に、主イエスが私を愛し、赦してくれたという事実に出会うからです。私こそ愛する者ではなくて、愛された者。赦された者。それは私の内には愛がないという事実と向き合う時に知れるのです。他人を殺す人は、どこかで自分が高みにいるのです。けれど、私たちは神の前に等しく「赦された罪人」に過ぎません。赦された罪人である私は、目の前にいる人もまた赦された罪人であると信じる必要がある。そのとき私たちは、目の前にいる一人を受け入れ、愛する者とされるのです。

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