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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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200126 ハイデルベルク信仰問答 問108~109

Ⅰコリント6:18-20 「聖霊の宮だからこそ」

 「姦淫してはならない。」このような戒めが命じられる背景には、そのような不貞が簡単に行われていたという時代の常識があるわけです。レビ記18章ではこの地の風習を真似てはならないとはっきり記されています。その風習とは近親相姦、不倫、人身御供、同性愛、獣姦。目を覆いたくなる内容です。けれど、当時の性に対する倫理観とそれに対する主の戒めを、私たちは決して他人事に聞くできません。なぜならここで語られる性の堕落の様子は、私たちの日常にこそ蔓延しているものだからです。
 日本では法律がありますから、過度な近親相姦を見かけることはありません。けれど、不倫や同性愛、婚前交渉などは、あって当たり前のようになって来ています。そして、その大義名分は個人の人権だと言うのです。私の人生を私の思うままに生きる。私のありのままに生きる。そのことに誰も指図してはいけないし、されるつもりもない。それはたとえ神にさえ邪魔はさせない。この風潮は近年ますます加速しているように思うのです。けれど、ありのままに生きると宣言する、ありのままの私とは果たして何者なのでしょうか。罪の影響を受けている私たちは、どうしても物事を「私にとって」と考えるところがあります。けれど、問わなければならないのは、それが永遠に通用する正しさなのかということです。
 主はこの地の「風習をまねてはならない。」とはっきりと言われました。そして、「だれであれ、これらの忌み嫌うべきことの一つでも行う者、それを行う者は自分の民の間から断ち切られる。」とおっしゃられた。ならば、私たちはこれらのこと、不倫も同性愛も婚前交渉も、個人の自由と主張すべきなのではなくて、神が望まれるところは何かと問うべきではないでしょうか。
 姦淫が2つの大切な関係を破壊するということを、私たちは理解しておかなければなりません。一つは家族です。姦淫がなぜ起こるのか。それは、正しい結婚感に立っていないために、結婚生活に満足できないでいるからです。パウロは第1コリント7章で、不品行を避けるために結婚すべきと記しています。また結婚した夫婦は、互いの体の権利は自分ではなくて相手が持っていると言い、その互いの権利を奪ってはいけないと言っています。パウロは結婚における性が、夫婦を結び合わせる大切な要因だとを語るとともに、自分の我を通すことが夫婦関係ではないとも言っています。互いが労り合い、補い合うのが夫婦です。今、芸能人の不倫が大きな話題となっていますね。妊娠中の妻を置いて不貞をしていたのですから、弁解の余地はありません。求めるだけの結婚生活であるから、それが聞かれない時、外に目が向いてしまうのです。相手の立場に立って、寄り添わなければなりません。夫婦はもっと向き合わなければいけません。一時の情欲に身を任せることの代償は、自身にとっても、家族にとっても、あまりにも大きなものです。
 さて信仰問答は、この姦淫問題について、もう一つ重要な視点から論じています。それは私たちの体と魂が聖霊の宮とされているという点です。姦淫はただ単に夫婦の関係だけに留まらず、神との関係を損なうのです。パウロは、エペソ5:3で「あなたがたの間では、聖徒にふさわしく、淫らな行いも、どんな汚れも、また貪り(むさぼり)も、口にすることさえしてはいけません。」と言っています。私たちは確かに誘惑に流されやすく、罪の影響を受けやすい者であることは事実です。けれど、だからと言って、罪に流されて生きて良いということにはなりません。パウロの言葉は続きます。「こういう者はだれも、キリストと神との御国を受け継ぐことができません。」レビ記とパウロの見解は全く一致しています。「それを行う者は自分の民の間から断ち切られる」のです。そもそも私たちが神の御国を受け継ぐのはなぜでしょう。それは聖霊が内住されるからです。神と共にあり、キリストの内におられる一つなる聖霊が今私たちの内におられる。私たちはこの聖霊のゆえにキリストと結ばれ、神の民とされるのです。姦淫をするとは、聖霊を追い出して遊女と結ぶことに他なりません。そして聖霊を失えば、神の民から断ち切られるのは当然のことです。聖霊と遊女。私たちがどちらを選ぶべきかは明白です。大切なものを失ってからでは遅いのです。私たちは本当に大切なものを失わないように、家族を、そして聖霊を選んで参りましょう。

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