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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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200129 レビ記11:1-28 「恵みに感謝して」

レビ記11:1-28 「恵みに感謝して」

 11章からは神の民とされたイスラエルが、食べて良いものと悪いものについて記されています。

 1-8 イスラエルが、地上の動物で食べても良いもの。
ひづめが分かれて、完全に割れているもの。反芻するものは食べても良い。しかし、反芻してもひづめが分かれていないものは食べられない(らくだ、岩だぬき、野うさぎ)。ひづめが分かれていても反芻しないので、豚も食べられない。それらの死骸にふれてもいけない。
 9-12 水中にいる生き物で食べても良いもの。
ひれと鱗のあるものは食べても良い。しかし、ひれや鱗のないものは全て忌むべきもの。
 13-19 鳥のうちで食べても良いもの。
具体例を見ると、猛禽類の鳥類が禁じられている。逆に言うと、その他の鳥を食べても良い。鳩や山鳩の類は食べても良い。
 20-23 昆虫で食べても良いもの。
羽があって群生し四つ足で歩き回るものは忌むべきもの。しかし、地上を飛び跳ねるもの(いなご、こおろぎ、ばった類)は、食べても良い。

 さて、この箇所を読んで、地上の動物、水中の動物、空の鳥、昆虫で、きよい動物と汚れた動物の共通の線引はなにかということについて、古来様々に語られてきました。それは草食か肉食かの違いだと言う人もいるし、直接、大地や水などに触れているかどうかだと言う人もいます。そして、それぞれにもっともらしい理由が挙げられています。しかし、この箇所を読んでわかるのは、主があらゆる生き物をイスラエルにとってきよいもの、きよくないものに分けられたということのみです。なぜ分けたか、それは主のご領分です。大事なのは、分けられた生き物。特に食材という最も身近な取捨選択の中で、主の戒めを覚えて生きるということにあるのです。ユダヤ人は今でも豚を食べません。イスラム人も豚やお酒はたとえ食材や調味料としてでも口にしません。後になって、その料理にポークエキスが使われていたとわかれば、これは大変な騒ぎになります。私たち日本人からすれば、そこまで厳格にする必用はないじゃないかと思うかも知れませんが、それが神に対する彼らの信仰の覚悟なのです。彼らは毎度毎度、食事の際に、これは神の戒めに適った食事かと意識し、それを守るのです。
 私たちが何を食べても良いと理解しているのは、ペテロが見た幻から、キリスト者が戒めに込められた主の意図を汲み取ったからです。ペテロは大きな敷布の中に、あらゆる種類の四つ足の動物や、はうもの、空の鳥などがいるのを見ます。そして「ペテロ、さあ、ほふって食べなさい。」という声を聞きます。それはまさに今日のレビ記で汚れたものとして定められたものでした。ペテロは抵抗します。けれど、「神がきよめた物を、きよくないと言ってはならない。」という主の声を聞くのです。幻が3度繰り返された後、ペテロはコルネリオの下僕に話を聞き、彼を尋ねて異邦人である彼とその家族に救いを授けるのです。
 「神がきよめた物を、きよくないと言ってはならない」これは言い換えると、「神が汚れたと言われたものを、きよいと言ってはならない」ということです。ですから、どの生き物が汚れていて、どの生き物がきよいかと選り分けることが大事なのではありません。なぜ?はさして重要ではありません。主がイスラエルに対しては、そのように定められたということ。それはイスラエルには食事のたびに、神の戒めに従うという姿勢が求められたということ。つまり、食事のたびに、自分たちが神の民として選ばれたことを自覚し感謝することが求められたのであり、この意図を汲み取ることが大事なのです。
 私たちは、今、きよい、きよくないと、食材を意識し選別して食事することはいたしません。けれど、神の民イスラエルに戒めを与えられた主の意図は、引き続き背負うべきではないでしょうか。つまり、食事という私たちにとって最も身近な行為の中に、私たちは主の赦しと救いを覚えて感謝するのです。戒めが今なお厳格に規定されていたらならば、私たちの救いはユダヤ人になることでしかありませんでした。けれど、主は私たちの隔ての壁を打ち壊し、至聖所の垂れ幕は破られたのです。私たちは異邦人ではありますが、キリスト者とされたのです。今、私たちが自由に食事を楽しむことができる幸いを覚えながら、それが主の和解による恵みであることを感謝する者でありたいと思います。

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