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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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200205 ピリピ3:1-11 「見えるしるしに頼らず」

ピリピ3:1-11 「見えるしるしに頼らず」

 パウロが初めてこの町を訪れた時、町外れの祈りの場で紫商人のルデヤと出会い、また看守たちが信仰を持ち、欧州における最初の教会が設立されました。それはつまり、ユダヤ人が改宗したのとは違い、ピリピ教会の人々は皆、パウロの語る福音によって導かれた人たちだったということです。ピリピ教会は生みの親パウロを慕い、経済的に援助し、パウロが投獄されたときにはエパフロデトを派遣して、その働きを支え続けました。パウロはそんなピリピ教会に対して、感謝の言葉を惜しみません。この手紙は別名感謝の手紙とも言われるほど、パウロのピリピ教会を想う気持ちが溢れています。
 そんな中、この3章では、ピリピ教会に降り掛かったある問題を取り上げています。それがユダヤ主義キリスト者の台頭です。パウロが去った後、ピリピ教会のユダヤ的な考えに引っ張られる人たちが力を持つようになり、律法を守ること、つまり割礼を受けなければ救われないと強要するようになっていったのです。
 パウロは律法による義を退けます。そんなのは無駄だと言います。なぜなら、パウロほどに律法による義を立てることに熱心であった者はいないからです。彼は経験者です。だからこそわかる。そんなことに時間も労力も費やすのは損でしかない。大事なのは、「律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義」に他ならないとです。
 律法を守ることによって立てられるのは自分の義です。しかし、それはどこまで行っても神の義に至ることはありません。律法で守るべきはその字面ではありません。その律法に込められた神の御心です。割礼というのは神の民とされた者のしるしです。神の民は割礼を受けなければならない。けれど、割礼を受けたから神の民とされるということではないのです。割礼というのは、当時のエジプトやカナン地方においても行われていた儀式ですし、広く世界中で見られる衛生予防上の習慣でもありました。ではそれらの割礼を受けた皆が神の民であるかというとそうではありません。そこには神が選んだという一方的な関係が結ばれていたのです。割礼はこの恵みに対する応答の手段に過ぎません。
 けれど、パウロが去った後、ピリピの人々はこの目に見えるしるしに頼ったのです。一世代のキリスト者たちは、復活のイエス様と出会った感動の中で信仰を得ました。けれどピリピの教会の人々はイエス様を直接見ることのない第2世代のキリスト者でした。彼らは信仰によって救われました。けれど、見えないものを信じることは難しいのです。迷いやすいのです。肉体に決して消えることのない救いのしるしを持っていたい。それは彼らの弱さからくる誘惑です。けれど、同じ誘惑は私たちのうちにもあるのです。目に見えるところで、自分の信仰を測りたいという誘惑です。そうしないと不安だからです。信仰の歩みはある意味で今まで得と思っていたことを捨てて、損と思うことを拾うことです。今までの価値観が全くに変わってしまうことです。これはある意味で恐ろしいことです。それはこの世の評価がひっくり返るということです。今までは清濁併せ呑んで、結果を出してきました。けれど、私たちは神の前に正直に生きるようになった。それは融通の効かない生き方です。結果も、評価も、価値観も、ひっくり返る経験です。にも関わらず、新しい生き方が神に喜ばれているかどうか、評価されているかどうかは私たちには見えないのです。だから、私たちは見えるものに頼りたくなります。功績を積み、誰もが認める救いのしるしを手にしたくなります。そういう信仰のあり方は今までの価値観の邪魔をしないからです。
 けれど、恵みは一方的なものです。そうでなければ、私たちが救いに与ることはかなうはずがありません。罪の問題は私たちが何を体験したから、私たちがどう努力したからと言って済む単純な問題ではありません。罪のために神の御子を殺さなければならなかったのです。私たちは信仰を測りたい誘惑があります。行いによって自分の義しさを数えたくなります。けれどそれはやはりどこまで行っても自分の義なのです。神の義は、私たちがどうこうすることで満たされることはありません。神の義は神によってでなければ。だからこれは恵みです。キリストを信じる信仰に基づいて、与えられるキリストの義なのです。

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