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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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200209 ハイデルベルク信仰問答 問112

エペソ4:25 「偽りを捨てて」

 嘘をついちゃ駄目ですよ。とは、私たち大人が子どもたちに必ず教えることです。けれど、そういう大人たちは、本気で嘘をついてはいけないと思っているでしょうか。大人になり、色んなことを経験しますと、若い人たちの青臭い正義感が鼻につくことすらあります。そんな綺麗事だけじゃ世の中渡っていけないんだよ。と、したり顔で諭したくなります。世の大人は子どもたちには正直にと言いながら、実は馬鹿正直でいることは損を見ることだと思っているのではないでしょうか。長いものには巻かれて、権力には忖度して、そのためには白いものでも黒と呼ぶ。これが世の常識ではないでしょうか。けれど、こんな時代だからこそ、私たちはこの第9戒に聞く必要があるのです。
 第9戒は、出エジプト記20:16には「あなたの隣人について、偽りの証言をしてはならない。」とあります。もともとは裁判での証言を意識したものです。今でも裁判所で証言をするとき、証言者は偽らないことを宣誓しなくてはいけません。もし偽れば、偽証罪に問われます。それほどに念を入れます。なぜなら、その証言如何によって、一人の人の人生が左右されるからです。
 私の軽はずみな発言が取り返しのつかない結果を招いてしまう。この戒めを本気で考えるなら、私たちはもう発言すること自体に躊躇してしまいます。私はそんなにも重たい十字架は背負いたくないと思います。けれど、黙っていればそれで良いわけではありません。証言台に立つのは私一人とは限りません。私が話さないその裏で無数の発言がなされるのです。中には悪意を持った発言もあります。確かに私が発言をしなければ、私はその人の結果を左右することはないかもしれません。けれど、私が発言しないために、多くの身勝手な発言がその人の人生を左右するかもしれないのです。そうなれば、それはまた別の十字架を背負うことにはならないでしょうか。この戒めは単に偽るなと言っているのではありません。言葉の重みを十分理解して発言しなさいと言っているのです。もちろんこれは、裁判だけのことではありません。私たちの日常で問われているところです。私たちの言葉には、それほどの責任がある。重みがある。だから、くれぐれも慎重に、丁寧に、話しなさいと言っているのです。
 そんなことを言っても、と思われるでしょうか。私たちの日常では、やっぱり嘘をつくことも、心を騙して生きることも必要じゃないか。と思われるでしょうか。確かに真実は時に相手の心を容赦なく斬りつけもします。真実を語ることは十分に配慮がいることです。ですから、私たちはこの真実を語れという教えに、一つの基準を設けなければなりません。それはつまり、その言葉は愛に根ざしているかということです。十戒の教えは、神を愛し人を愛するということに要約されると、パウロは言いました。私たちが語るのは、断罪するためではありません。自分を守るためでもなければ、媚びるためでもありません。それは愛に基づくのです。
 イエス様がどのような方だったかを思い出しましょう。イエス様が宮で話しておられると、一人の女性が姦淫の現場を捕らえられて連れてこられました。祭司たちはイエス様にこの女性の処遇を尋ねます。罰するべきか、不問にすべきか。するとイエス様は答えられます。「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの人に石を投げなさい。」彼らは一人また一人と去っていきました。帰らざるを得ませんでした。残ったイエス様はこの女性に問います。「わたしもあなたにさばきを下さない。行きなさい。これからは、決して罪を犯してはなりません。」字面だけを追って断罪しようとする祭司たちに対して、言葉少な目に罪と向き合わせるイエス様の姿があります。それはイエス様が偽ったということではありません。律法を誤魔化したのでもありません。律法に込められた神のみこころに沿ったのです。人々を罪と向き合わせ、この女性を悔い改めへと至らせます。この女性はただ単に姦淫の罪を赦されただけではありません。神との和解を得たのです。言葉は人を傷つけます。けれど、言葉は人を生かしもするのです。愛に根差した言葉は人を生かします。私たちの言葉が人を生かすものとされたいと心から願います。

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