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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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200216 ハイデルベルク信仰問答 問113~115

ピリピ3:12-14 「次第次第に」

 出エジプト20:17には「あなたの隣人の家を欲してはならない。あなたの隣人の妻、男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなたの隣人のものを欲してはならない。」とあります。またヤコブ1:15には「そして、欲がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます。」ともあります。あらゆる罪の原因となるもの、それが欲望であると言うのです。殺すことにせよ、姦淫することにせよ、盗むことにせよ、それらを突き詰めていくと、全てこの第10戒に行き着きます。第10戒が取り上げる欲望とは、罪の内面的動機に他ならないからです。
 ですから、これは今までの戒めと比べましても、格段に厳しい戒めと言えるかと思います。これまでの戒めは、聞く人によっては、何ら心探られることのない戒めです。私は盗んでない。殺してもいない。ところが、この第10戒まで来て、もはや誰も言い逃れることができません。自らの内にある罪と向き合わざるを得なくなるのです。
 隣人の家を欲しがるとは、そこに自分の家との違いに目を向けるということです。自分の家には無いものを見つける。そして自分は足りないと思う。そしてやがては自分が不当な扱いを受けているようにすら思えてくるのです。お隣の○○ちゃん、△△大学に受かったみたいよ。斜向かいの□□さんは部長に昇進したんですって。こういう話は私たちもよくしがちです。しかし、その裏には「それに比べてうちなんて」という恨み言や、「なんであの人ばっかりいい思いをして」というやっかみが私たちを捕らえているのです。これが問題です。素直に喜べないのです。喜びを共有できないのです。どこかで、比べてしまうのです。それは現状に対する不満があるからです。そして、それらは、多くの場合、与えられている恵みをきちんと把握していないことに原因があるのです。
 この第10戒は私たちの罪の動機となる、隣人への妬みややっかみといった問題をとりあげています。それは私たちの心の問題です。私たちが隣人とどのような思いで接しているかを問うています。この問題の厄介なところは、突き詰めていくと、この戒めを完全に守ることなどできないという結論に行き着いてしまうことです。戒めを守ろうとすればするほど、私たちは自身の至らなさと向き合うことになるのです。これは正直辛いことです。イエス様は実際に姦淫しなくても、心の中で情欲を抱いているなら姦淫を犯しているのと同じだと言われました。つまり、全ての戒めには、この第10戒が問われると言うことです。しかし、私たちの内面が問われるとすれば、果たして誰がこの戒めを守ることができるのでしょう。
 守れません。もちろん、だから仕方がないと開き直るわけではありません。できないと知ること。知った上で、尚も、この戒めに向き合うこと。私たちが神の戒めにどう向き合うかが問われているのです。
 そもそも神は、この戒めを通して私たちに何を求めておられるのでしょうか。私たちが神のごとく完璧に振る舞うことでしょうか。そうではありません。私たちがあらゆることにおいて、神に寄り頼み、神の恵みの内に生きるということです。それは、私たちが再び神にとって代わり、己を神として生きないということです。神は、ご自身の民として決意するイスラエルに向けて戒めを提示します。それは人に被造物である身の丈を思い知らせる戒めです。そして、それゆえに、神の憐みを恋い慕う者とされるのです。私たちは神の戒めに向き合うほどに、自らが神ならぬ身であることを知ります。神の聖さに至らない我が身を知ります。それゆえ、キリストにある罪の赦しと義の恵みに目を向ける者とされます。聖霊の助けをいただかなければ、罪に立ち向かえない者であることを知るのです。
 私たちの信仰生活は一向に変わらない罪の性質に嫌気がする毎日です。けれど、それは私たちが次第次第に変えられている証拠です。それは神のみこころに沿いたいと願う、私たちの想いの故なのです。神の戒めなど無視して、開き直って生きることもできます。その日その日楽しいことで誤魔化して生きることもできるでしょう。けれど、私たちは今日、神の御言葉に聞こうではありませんか。私たちのゴールは、やがて神になることではありません。やがて主のみこころと心一つにされることだからです。

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