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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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2015/07/12 ヨハネ1:43-51 「ほんとうのイスラエル人」

ヨハネ1:43-51 「ほんとうのイスラエル人」

 「これこそ、ほんとうのイスラエル人だ。彼のうちには偽りがない。」イエス様のこの褒め様はなかなかのものです。いったいナタナエルの何が主から褒められたのでしょうか。それは「彼の内には偽りがない」ということでした。世の中には偽物の信仰の輩、形だけとりつくろい、熱心に見せびらかしている人たちで溢れているけれども、あなたはそういった者たちとは違う。あなたの信仰に偽りはない。あなたは本物の神の民、イスラエル人だ。とです。イエス様にその信仰が認められたナタナエルでした。
 しかし、これは何も、ナタナエルという人が成人君主のような立派な人だったということではないと思います。彼は先に、ピリポの言葉に対して「ナザレから何の良いものが出るだろう。」と反論いたします。彼はカナの町の出身でした。そのカナの町のすぐ近くがナザレです。彼はナザレの町の様子を知っています。あんな片田舎の取り立てて見るものもない小さな町から、救い主が生まれるはずがない。それが本当なら、もうとっくに噂になって私の耳にも入っていたはずだ!と、こう、ピリポの言葉を切って捨てたのです。彼の内には偏見がありました。先入観がありました。それゆえ彼には理解できません。けれども面白いのは、彼は反論しつつも、ピリポに従います。「来て、そして、見なさい。」馬鹿馬鹿しいと思いつつも、ピリポの熱を帯びた言葉に、もしかするとと期待して、ついて行くのです。
 彼は決して立派な人間ではありません。偏見いっぱいの頑固な者でした。時にその頑固さの故に人とぶつかることもあったでしょうか。もしかすると煙たがられることもあったかもしれません。ピリポが彼に声をかけた時彼はいちじくの木の下におりましたけれども、それも人付き合いをわずらわしく思い、一人いちじくの木の下にいたのかもしれません。わかりません。けれど、そんな彼も、救い主を慕い求めるという一点においては、何の嘘偽りもない。彼は心から求めていたのです。
 初めて会ったイエス様から自分を評されたナタナエルは尋ねます。「どうして私をご存じなのですか。」するとイエス様は「わたしは、ピリポがあなたを呼ぶ前に、あなたがいちじくの木の下にいるのを見たのです」と。つまり、あなたのことをずっと見ていたからだよと言うのです。けれどこれは不思議ではないでしょうか。ナタナエルがイエス様の下に来たのはピリポの誘いによってです。誘いに応じて今イエス様の前にあるのは、彼の意志であり事前に決まっていたことではありません。ですから、この無数にいる人々の中で、イエス様がナタナエルに殊更注目を向ける理由はどこにもありません。彼は有名人でも何でもない。にも関わらず、イエス様は見ていた。これこそがイエス様というお方です。人は他に幾らでもいるのに、この方は私を見ていた。私の言動を、私の日常を、つぶさにご覧になっていた。私に関心を寄せてくださった。ナタナエルはイエス様のこのたった一言に、この方が「神の子」であることを悟るのです。
 私という存在は、この世の中で溢れかえる不特定多数の一人かもしれません。私はともすればこの世の中に埋もれてしまっていて、誰も気付いてくれないような孤独を感じることがあるかもしれません。私なんて誰も見向きもしないと、一人枕を濡らすことがあるかもしれません。けれど、イエス様はそんな私の人生にスポットライトを当ててくださる。他の誰でもない。私を見ていてくださるのです。ピリポは言いました。「来て、そして、見なさい。」私たちはこの方の下に集い、この方を見ました。この方と出会いました。しかし、私たちはそれゆえに知るのです。私たちこそが見守られていた、知られていたという事実をです。

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