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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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200223 ハイデルベルク信仰問答 問116~119

Ⅰテサロニケ5:16-18 「みこころに適う祈り、適わぬ祈り」

 創造主なる神を知り、神の前に罪を犯した己を知り、その己のために自ら犠牲となって和解をもたらされた主イエスを知る。この過程を正しく辿らなければ、私たちの人生に揺るぎない感謝は生まれません。逆に言いますと、私たちがこの救いの過程を正しく理解する時、私たちは日常生活の様々な事柄とは別に、私たちには感謝が生まれるのです。今日嫌なことがあった。けんかをした。悪口を言われた。仕事で失敗した。そういう日常の出来事に、私たちはいつも喜ぶことなど到底できません。絶えず祈れと言われても、祈れないことも沢山あるし、祈りたくないときもある。けれど、そういう日常を超えて、私たちが神のご計画に目を向けるとき、今日と言う日が如何に失敗続きでも、喜べないことがあろうとも、やはり私たちには意味のない日々はなくて、全てを通して今に至ること、そして今を通して神のご計画がなることを知るのです。私と言う存在を、今日の出来事の良し悪しを通して図るのではなくて、神のご計画の中で捉えていけるようになるのです。もちろんだから全てOKとは、なかなかいかないんですけれども、それでも、私たちにはそういう私たちの側の影響を受けない、一方的な恵みに基づく感謝があるということは、なんと慰めであろうかと思うのです。神はそういう感謝に気付いて欲しいと思っておられるし、そういう感謝に基づいた祈りがキリスト者には必要なんだと、主イエスは教えておられるのです。
 ハイデルベルク信仰問答117問は、「神に喜ばれ、この方に聞いていただけるような祈りには、何が求められますか。」とあります。その答を要約しますと、まことの神に向けられた、神のみこころに沿う祈りであること。神の威厳の前にへりくだった祈りであること。そして、この祈りがただ主キリストの贖いの御業ゆえに聞き入れられると、確信を持って祈ることです。そのような祈りは神に喜ばれ、聞いていただけると言います。そしてそれらを適切に求める祈りの例として、これから「主の祈り」をご一緒に学んでいきましょうと言うわけです。
 さて主の祈りを具体的に学ぶ前に、主がこの祈りを教えられる背景に、当時の人々の間違った祈りがあったことは確認しておくべきでしょう。それは偽善者のような祈りや、異邦人のような祈りです。マタイ6:5では「祈るとき偽善者たちのようであってはいけません。彼らは人々に見えるように、会堂や大通りの角に立って祈るのが好きだからです。」とあります。イエス様はここで、祈りが神に向けられず周りにいる人々の反応に向けられていることを指摘しています。当時の律法学者たちは、好んで会堂や大通りの角に立って祈りました。自分の信仰の熱心さを人々にアピールするためにです。彼らの祈りは聴衆こそ必要ではあるけれど、神を必要としていません。神を意識せず、聴衆を意識する。いえ、聴衆からの自分の評価を意識する。イエス様は彼らを偽善者と呼びました。偽善者の祈り。しかしこれは、ともすれば私たちも同じではないでしょうか。「こんな風に祈ったら、もっと熱心に聞こえるんじゃないだろうか。」「こんな祈りをしていたら、不信仰と批判されるんじゃないだろうか。」祈ることで自分が他の人にどのように評価されるかばかりが気になるのです。果たして私たちの祈りは誰に向けられているだろうかと問わなければなりません。
 もう一つイエス様が挙げておられるのは、異邦人のような祈りです。マタイ6:7には「祈るとき、異邦人のように、同じことばをただ繰り返してはいけません。」とあります。これは別に同じ課題を何度も祈ってはいけないと言うことではありません。問題は彼らが、ことば数が多いことで聞かれると思っていることです。多くの宗教では、祈りの長さや、回数や、熱心さで、祈りが聞かれると考えています。けれど、祈りが聞かれるかどうかは、その祈りが神のみこころに適っているかによるのです。そして、一見聞かれていないように思えても、私たちの父なる神は、私たちの必要をすべてご承知で、私たちに必要な一切を備えてくださるのです。私たちの熱心さが祈りの結果をもたらすというのは、とても信仰的に聞こえますが、聖書的ではありません。私たちは祈りをもって、己の功績を誇ることもできないし、祈りをもって神の結果を強要することもできません。
 主が教えられた祈りは全くの真逆です。それは神のみこころを求める祈りです。神の望まれるこの地となるように、神の望まれるこの身となるように。この祈りの主権はあくまでも神にあるのです。ですから、私たちが主の祈りを学ぶことは、ただ単に祈り方を学ぶに留まらず、私たちの信仰の在りようそのものを学ぶことになるのです。

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