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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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200301 ハイデルベルク信仰問答問 問120-121

マタイ7:9-11 「天の父なる神」

 主の祈りは、神への呼びかけから始まります。この祈りは、他の誰でもない、この天の父に向けて祈りますよ。という区別であり、呼びかけをもって祈り始めなさいと命じておられるのです。神さまは唯一のお方なんだから、区別する必要があるのか?と思われるかもしれません。他の神々が並び立つのなら、どの神かと区別する必要があるわけですが、神は唯一なのだから、神さまと一言呼べばそれで良いんじゃないかとです。けれど、そうであっても、私たちがこの神をどのように理解しているかということは、やはり問われてきます。お寺で賽銭を入れて必死に願掛けをします。「受験の神様どうぞ試験に合格しますように。」神さまは唯一で、それ以外の神々は偽物で、実在しないのですから、じゃあこの祈りはまことの神に届けられているとなるでしょうか。それはやっぱりなりません。私たちが別の神々を意識して、その名によって祈るなら、それがどんなに実在しなくても、それはその神々を選び取っているのです。一つのものを選ぶということはその他を選ばないということです。まことの神を選ばない。まことの神に祈らないということです。ですから、イエス様は、正しく認識し、正しく呼びかけて祈ることをまず教えられるのです。
 イエス様は「天にまします我らの父よ。」と呼びかけるよう教えてくださいました。実はこれはとんでもないことです。なぜなら私たちは被造物であって、創造主なる神を、決して「父よ」と軽々しく呼ぶことなどできない存在だからです。私たちは神に創造され、神を裏切った存在です。神に従って生きることを良しとせず、自分の思いのままに生きようとする、罪を持った存在です。それゆえ、神はその聖さのゆえに、私たちを滅ぼされるのです。私たちは神に赦しを請うべき者ではあっても、父よと軽々しく呼べるような者ではありません。それなのに、イエス様はそんな立場を超えた呼びかけで、祈り始めることを勧められます。これはつまり、主イエスの購いの御業のゆえに、私たちの罪は赦され神の子とされる特権に与った、という約束を前提にして、あなたがたは神の子どもとして祈りなさいと教えておられるのです。
 私たちの神が単なる神ではなくて、父なる存在であるということはとても意味のあることです。それは全能の神が裁きの目ではなくて、親しみを込めて私たちと関わって下さるということを意味しているからです。親が子の成長に関心を寄せ、見守るように、父なる神は、私たちに関心を持っておられる。ですから私たちはどのような時も神の最善を期待して祈ることができるのです。時々、祈っても聞かれないと嘆かれる方がおられます。本当に神は実在するのかと。しかし、私たちが祈ったとおりに物事が進むことが、神の存在証明ではありません。子どもが毎日チョコレートばかり欲しがるとしたら、親はその結果どうなるか想像がつきますから、子どもの手の届かないところに隠してしまうでしょう。これは親が子の願いを聞いていないのではありません。子にとってより最善となるように親が判断しているのです。私たちは、祈ったことが聞かれているかどうかと、気にする必要はありません。神は聞かれているからです。神は全てをご存知で、その上で、私たちにとっての最善を成して下さるのです。祈っても祈らなくても結局のところ、神はみこころのとおりをされるのだったら、私たちが祈っても仕方がないのではないかと思われるでしょうか。しかし、そうではありません。確かに親はたとえ子が何も言わなくても子にとっての最善を用意することができます。しかし、だから子が思っていることを何も話さず、ただ黙っていることを望んでいるわけではありません。親は、子が何を考え、何を求めているのか、何を感じているかを聞きたいものです。確かに祈らなくても、神は私たちの最善を知っておられます。しかし、それでも神は私たちの願い思いを、私たちの口から直接聞くことを喜ばれるのです。神は私たちの祈りを待っておられる。そしてその願いに応えたいと思っておられるのです。
 ハイデルベルク信仰問答は、わたしたちの祈りの土台は神に対する子どものような畏れと信頼だと教えています。畏れと信頼。神の前に出ることへの罪人としての本能的畏れ。それはつまり被造物である自分と創造主なる神との正しい距離間、正しい立ち位置を理解すること。そして主イエスの贖いのゆえに神の子とされたことへの信頼を持つこと。これが祈りの前提としてあって、初めて呼びかけることができる「天にいます私たちの父よ。」なのです。ですから私たちは何気なく「天の父なる神さま」と祈りますが、しかし、これは決して当たり前のことではなくて、主イエスの購いによって勝ち取られた特別の権利であるということを理解し、感謝して祈りたいと思うのです。

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