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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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200308 ハイデルベルク信仰問答 問122

詩篇115:1 「み名をあがめさせたまえ」

 「天におられる父なる神よ」という呼びかけに続いて、いよいよ祈りの部分が始まります。前半に3つ。後半に3つ。それぞれ、父なる神についての祈りと祈る私たちのための祈りです。この両方の祈りがバランスよくあることが大事です。イエス様はこのどちらも祈りなさいと言っておられます。考えてみますと、私たちは常日頃祈るときに、後者の祈りが多いのではないのかと思います。「こうして下さい」「ああして下さい」と自らの必要を祈ることが常でないかと思います。確かに、何を祈っても良いのです。父なる神様は、子を愛しく思い、心配し、最善をなしてくださるお方です。私たちが思うところを祈ることを喜んでおられます。しかし、イエス様はその前に祈ることがあると言っておられる。それが、この前半の3つの祈り。「御名をあがめさせたまえ」「御国を来らせたまえ」「御心が天になるごとく、地にもなさせたまえ」です。
 ハイデルベルク信仰問答は「み名をあがめさせたまえ」という願いに2つの意味が含まれていることを指摘しています。一つは、私たちが主の御名を正しくあがめ賛美できるようにということ。そしてもう一つは、私たちを通して主の御名があがめられ賛美されるようにということです。
 祈りにおいて、私たちがまず主の御名をあがめることが大切です。あがめるとは、もともと「聖とする」という意味の言葉です。そして「聖」とは「分離する」とか「切り離す」という意味の言葉です。旧約の時代、祭司は羊の群れの中から傷のない一番立派な子羊を取り出し、神にささげました。神に相応しくないものを切り離して、特別な相応しいものだけを選び取る。これが「聖」とするということ。ですから「神の御名を聖とする」とは、神様を他のあらゆるもの、相応しくないものから区別し、この方こそ特別の存在であることを認めて、褒め称えるということ。すなわち「父なる神様。あなただけがこの世界で唯お一人の神であられますように」という祈りです。
 なぜ、このように祈るのかと言いますと、そこには、神の御名が聖とされていない、つまり神の存在が特別ではない現実があるからです。この世の中には神々が氾濫しています。人の数だけ神がいると言っても過言ではありません。自分が望む神。自分に都合が良い神を皆が抱いています。そんな中にあって、人々はこの真の神の特別さを理解することが出来ないでいるのです。この真の神はオリジナルの神です。「わたしはある」と言われた、他者に依存しない唯一の神です。神によって作られた人間は本能的に神との関係を求めますが、人間は罪のゆえに神から引き離されたために、真の神を崇めることができません。それゆえ、人々は好き勝手に神のコピーを思い描き、間違った礼拝を捧げるのです。人が真の神を崇めるためには、神がご自身を明らかにして下さらない限り不可能です。ですから「御名をあがめさせたまえ」です。「私にご自身を明らかにして下さった父なる神様、どうぞあなたが全てのものを創造された唯一真の神であることを人々にも知らせ、皆があなたの尊いお名前を褒め讃えるようにさせて下さい」。この祈りは神のご栄光を讃えると共に、未だ神を知らない人々を覚えてのとりなしの祈りでもあるのです。
 人々が主の御名をあがめて賛美するように。しかしハイデルベルク信仰問答は、この祈りは単なるとりなしには終わらないと言います。この祈りは、神様に丸投げの「どうぞ明日起きたら願いが適っていますように」と言った、責任を委託する祈りではありません。それは具体的な応答の生き方へと私たちを導く祈りです。私たちがもしその行いにおいて不誠実であるなら、人々は私たちを見て、私たちではなくて、神に失望してしまうことでしょう。もしそのようなことになれば、私たちは神の御名を褒め讃えながら、実際には神の御名を汚してしまうことになるのです。ですから、この祈りは「こんなにも不誠実でどうしようもない私ですけれども、どうぞこの土の器をも用いて、主の御名が崇められますように」という決意の祈りでもあるのです。

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