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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝メッセージを要約したものです。

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200322 ハイデルベルク信仰問答 問124

マタイ26:36-42 「みこころをなさせたまえ」

 「みこころが天になるごとく、地にもなさせたまえ」皆さんはどのように理解してこの祈りを捧げていることでしょうか。納得が行かないこの世界の現状に対して、天にあるみこころの地上での成就を願う。つまり「この罪深い世界は神様のみこころの通りになっていません。ですから、この地上を神様のみこころに叶う素晴らしい世界としてください。」という神の正義を求める祈りと理解されているでしょうか。実は私自身、長くそのように理解して祈っておりました。けれどよくよく考えて見ますと、私たちが何を祈ろうと祈るまいと神のみこころがなるのは動かしようのない事実です。あらゆることは神の御手にあり、神は私たちによって影響されるお方ではありません。そして天におられる神様は、地においても神であり、天地によって神のみこころに違いがあるわけではありません。神のみこころは天においても地においても等しく成るのです。ですからこの祈りには神の正義とはまた別の目的があるように思います。
 ハイデルベルク信仰問答は、この祈りが、私たちが神のみこころに従えるように。私たちが自分の務めと召命を喜んで忠実に果たせるように。という祈りだと教えています。実はこの祈りは地上の誰かとか、地上の現状をともかくいうよりも、「私を自分の思いのままにではなくて、神のみこころのままに生きさせてください」という信仰者としての生き方を求める祈りだと言うのです。
 私たちの祈りは、なんと自分優先の願いとはなっていないでしょうか。テストの点が取れますように。病気が治りますように。あの人と結婚できますように。もちろん、どう祈っても良いのです。けれど、みこころがなるのです。ですから、私たちの祈りがみこころに適うことを願い、更には私たちの祈りをみこころに委ねることが大事です。そうでなければ、私たちは祈りの結果だけに固執し、結果如何によって躓くことになりかねません。祈りの結果に一喜一憂するのは、祈りをおみくじにしているからではないでしょうか。そうではありません。祈りは神のみこころが成ることが大事であり、結果を事前に神に委ねることが大事なのです。
 祈りの結果を神に委ねるためには、神のみこころこそが最善であるという確信がなければなりません。「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし人は、神が行うみわざの始まりから終わりまでを見極めることができない。」(伝3:11)とあります。神がこの世界に最善のご計画を持っておられることへの信頼なくして、神に祈ることはできません。どんなに逆立ちをしても被造物である私たちには、神のみこころを知り尽くすことはできないのですから、これはみこころを知った上で祈るものではありません。神のみこころがどのようかはわからないけれども、神は無駄なことをなさるはずはない。最善をなして下さる。だからこの信頼に基づいて、私を神のみこころのままに生かさせてくださいと願うのです。なぜなら、神のみこころがなることは疑いようのない事実ですが、私が神のみこころに生きられるかどうかは、私の意思や私の努力ではなくて、内なる聖霊によるからです。
 主の祈りはこの後、具体的な日毎の祈りへと移っていくわけですが、その前に、神様のみこころがなるようにと願う。それは、神のみこころを私たちの祈りの結果として下さい、という祈りです。言い換えればこれは明け渡しの祈りと言えます。「私の祈りも願いも、状況も生涯も、いっさいを、主よ、あなたに明け渡します。」という祈りです。イエス様がゲッセマネで祈られた祈りを思い出します。イエス様はご自身の思いを願いつつ、しかし父なる神のみこころがなるようにと祈りました。だからこそ、祈りの結果を神の最善と受け止めることができたのです。目の前にある出来事に、どのような解決や結果が用意されているかは私たちにはわかりません。しかし、私たちは神がみこころをなされるお方だと知っています。そして神のみこころは私たちの思いを超えて最善であると信じています。ですから、この祈りの結果に、神のみこころがなりますようにと祈るのです。そのとき、私たちは祈りの結果に左右されません。それが私にとって好ましいか好ましくないかではなくて、神が用意された祈りの答えとしての結果に、感謝することができるのです。私たちが握りしめているこうあるべきという結果を委ねることで、私たちは神のみこころを知ることとなるのです。

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