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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝メッセージを要約したものです。

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200325 ユダ1:17-25 「神を畏れて」

ユダ1:1-25 「神を畏れて」

 ユダの手紙の著者はヤコブの兄弟のユダと言われています。ヤコブは小ヤコブと呼ばれ、ペテロに代わってエルサレム教会のリーダーとなったあのヤコブです。彼は主の兄弟ヤコブとも呼ばれており、イエス様の弟に当たります。そのヤコブの兄弟と言うことですから、このユダはイエス様の弟であるユダだとわかります。
 ユダは自分のことを使徒とは呼ばず「イエス・キリストのしもべであり、ヤコブの兄弟」と呼んでいます。謙遜なユダの性格が見て取れます。その彼が今厳しいこの手紙を記します。それは彼が関心を払っていた諸教会に間違った教えが忍び込んでいたからでした。3節に、信仰のために戦うよう、手紙を書く必要が生じたとあります。つまり、信仰のために戦わないように仕向ける存在があったということです。4節に、ある人々がひさかに忍び込んできたとあります。それは不敬虔な者、恵みを放縦に変え、イエス・キリストを否定する人だともあります。また8節には、肉体を汚し、権威ある者を軽んじ、栄えある者をそしっているともあります。つまり、信仰者として当然あるべき従順を否定し、全てを神の赦しを言い訳にして軽んじる人たちだったということです。そういう罪を軽視する間違った教えが教会に入り込もうとしていたのです。
 ユダは神が裁きの神であることを語ります。もちろん、それは神の一面に過ぎません。けれど、それは決して否定されてはいけない義なる神のご性質です。信仰義認の教理は、私たちの救いが行いではなくて信仰に拠ることを教えます。それは間違いのない事実です。けれど、その救いは無条件に与えられたのでは決してありません。そこにはイエス・キリストの尊い犠牲があったのです。それは神の義を全うするために、御子キリストが自ら生贄となられたのです。ですから、恵みによって救いに与った私たちが、この恵みを盾にして傍若無人に振る舞うとしたら、それは主の命の犠牲を軽んじることに繋がるのです。
 さらにユダは「主が・・・信じない人々を滅ぼされた」と言います。「主は・・・自分のおるべきところを捨てた御使いたちを・・・暗やみの下に閉じ込められました」とも言います。イエス様が裁き主であり、逆らう者を滅ぼされる方であるという事実は、私たちにとって受け入れ難いことかもしれません。けれどこれが事実です。私たちは主を正しく畏れることが必要なのです。私たちは滅ぼすのはサタンだと思っておられないでしょうか?違います。サタンは誘惑する者です。サタンは私たちを罪へと誘惑します。しかし罪ある者を滅ぼされるのは神の義です。サタンは罪を喜ぶのです。
 ここを誤解すると、私たちはまことの神への正しい畏れを失ってしまいます。聖化の歩みを蔑ろにすることとなります。イエス様の贖いを盾にして、何をしても構わないという自分勝手な救いの理解を持ってしまいます。そうではないのです。私たちはイエス様の命を身代わりとして生かされたのです。ならば、私たちは身代わりとなったその命に相応しく生きなければなりません。私たちのために最も大切な御子のいのちを犠牲とした父の愛に応える者でなければなりません。恵みによって救われたからこそ、私たちはこのお方のみこころに従うことを願います。このお方のみこころに適う私でありたいと願うのです。

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