FC2ブログ
プロフィール

Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

最新記事
カテゴリ
月別アーカイブ
最新コメント
検索フォーム
リンク
QRコード
QR

200405 ハイデルベルク信仰問答 問125

ピリピ4:10-13 「日毎の糧を与えたまえ」

 この第4の祈りから、具体的で個人的な祈りの勧めへと移ってまいります。イエス様はまず「私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください」と祈ることを教えられました。けれど、この祈りに違和感を覚える人は、少なくないのではないでしょうか。「働かざる者食うべからず」。今日生きる糧は天から降って来るのではなくて、今日頑張った報酬として与えられる。これが世の常識ではないでしょうか。だからこそ、この頑張った報酬を自由にすることは私たちの当然の権利として認められています。世の中が語るところは、「私の日ごとの糧は、私自身の努力による。」なのです。それを神頼みとするのは、何か、努力不足を露呈していると言いましょうか、ご都合主義と言いましょうか。聞く人が聞くと、この祈りは現実逃避のあまりにも甘えた祈りに聞こえるのではないでしょうか。
 けれど、それは世の人々がまことの神を知らないからに他なりません。彼らは神以外のあらゆるものに頼らざるを得ません。努力と、生まれと、人脈と、そして運に頼らざるを得ない。けれどそれらは本当に頼りとなるのでしょうか。私たちの人生の保障となり得るでしょうか。イエス様がされたたとえ話に、ある金持ちが豊作の収穫物を蓄えるために、倉庫を建て替えようとする話があります。金持ちは思います。この倉庫が完成した暁には自分自身を褒めてやろう。「わがたましいよ、これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ休め。食べて、飲んで、楽しめ。」とこう自分に言ってやろう。。。けれど、そんな夢いっぱいの男に神ご自身からのお告げがあります。『愚か者、おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』落語の題材になるような何とも落ちの利いた話です。けれど、これは実際にそうなのです。どんなに蓄えようとも、どれだけ糧を得ようとも、それらが私たちの人生を保障してくれるわけではありません。コロナ騒ぎで世界中が買い溜めに走って問題となっています。我先に、食料を蓄え、水を蓄え、トイレットペーパーを蓄えます。けれど、それらがどれだけ蓄えられようと、私たちの命が今晩取り去られるという不安が無くなるわけではないのです。私たちは今日自分の思うままに生きているようでいて、しかし一瞬先はまるでわからない、そういう者です。それは父なる神の領分です。ですから神に頼らなければなりません。「私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください」というこの祈りは、ただ単に食べ物をくださいという祈りではありません。それは「私の生涯を本当の意味で保障されるのは神さまだけです」と認める祈りです。そして、この祈りは、神の備えた恵みに気付かせ、感謝として受け取るための備えとしての祈りでもあるのです。
 マルティン・ルターは「小教理問答書」の中で「神は、確かに、毎日の食物を、私たちの祈りがなくても、悪人たちにさえ与えてくださっています。それにもかかわらず、私たちがこの祈りを祈るのは、私たちにこの恵みを気付かせるために、そして、私たちが、感謝をもって毎日の食物を受け取ることができるようにするためです。」と解説しています。祈りによって恵みに気付き、感謝をもって受け取るために。と言うのです。私たちの日常生活の様々な場面で祈りが先行する時、私たちはそこに恵みを覚え感謝に生きることができるのです。祈らなくても私たちの日常は回るかもしれません。けれど、だからと言って祈らなくても良いわけではありません。日常を祈りの結果として迎えることが大事です。神がみこころのままに導いてくださった。そう信じることができるから、私たちはどのような結果も感謝して受け取ることができるのです。
 約束の地を目指して荒野をさまよったイスラエルの民に、神は天からのマナとウズラを与えられました。働かざるとも与えられる天の糧。何と羨ましい話でしょう。けれど、彼らにとって、それは毎日の日常。代わり映えのない日々。朝起きて、その日のマナを取り、夕方、その晩のうずらを取る。同じことを延々と。それはもう習慣であり、あって当然。私たちが水を飲み空気を吸うが如くです。ですから、彼らに必要だったのは実はこの祈りでした。「私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください」。祈らなくてもマナは降るのでしょう。糧は与えられるのでしょう。けれど、敢えて祈るのです。毎日祈る。これは当たり前を恵みとして受け取るための指さし確認です。それが神からの特別の恵みであることを確認するのです。私たちは如何に神の恵みを当たり前にしていることでしょうか。自分の手柄としていることでしょうか。私たちが祈らずとも、陽は沈み、また昇るでしょう。けれど、祈りの内にその朝を迎えるとき、私たちはこの新しい朝を喜びと共に迎えるのです。神の御手に育まれて歩むことの幸いを知るのです。

コメント

非公開コメント