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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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200412 イースター礼拝 ルカ24:1-32 「わかった。すると見えなくなった。」

ルカ24:1-32 「わかった。すると見えなくなった。」

 今、エルサレムからエマオの村に向かうの途上に二人の弟子の姿があります。一人はクレオパ。クレオパトロスの略名で、ヨハネ19:25にあるクロパという人物も、彼のことだと言われています。もう一人の名は記されていませんが、恐らくはクロパの妻マリアのことであり、十字架のそばでイエスの母であるマリアやマグダラのマリアと共にイエス様の死を見守ったその人です。この夫婦が今、エマオに向かっている。その日はちょうど、マグダラのマリアたちが空になった墓を目撃して残った弟子たちに知らせて騒動になった、その日であります。14節に「彼らは、これらの出来事すべてについて話し合っていた。」とありますし、19節からの彼らの言葉からも彼らがエルサレムでの騒動の一部始終を知っていたことがわかります。つまり、この夫婦はイエス様の十字架に寄り添うほどにイエス様と親しく、そして、イエス様の墓が空っぽだったという驚きの報告を直接耳にし、それでも尚、今この日にエルサレムを離れて我が家に向かっていたということです。
 彼らのことを信仰の薄い人たちと笑われることでしょうか。けれど、それはつまり、それほど彼らの落胆が大きかったということです。イエス様がよみがえられたかもしれないという報告を聞いても尚、その場を離れるほどに彼らは混乱していたのです。何にでしょうか。結局のところ、イエス様とは何者だったのか。ということがわからなくなってしまったのです。彼らは自宅までの道中、あれやこれやと論議します。けれど彼らには納得の行く答えが見つかりません。どれだけ論議してもある結論に行き着きます。イエス様は自分たちが思っていた方とは違っていたという結論にです。彼らは旅で一緒になったその人に言いました。「私たちは、この方こそイスラエルを解放する方だ、と望みをかけていました。」つまり、ローマの圧政から神の民イスラエルを解放してくれる救世主を期待していた。けれど、そうではなかった。これが彼らの中での結論だったのです。
 そんな彼らの下に、復活のイエス様は現れ、旅を共にします。ところが、彼らはそれがイエス様だとは気付きません。彼らはイエス様に、エルサレムで起きた一連の出来事を話します。イエス様は彼らが何も悟っていなかったということを嘆き「モーセやすべての預言者たちから始めて、ご自分について聖書全体に書いてあることを彼らに説き明かされ」ました。イエス様直々の聖書の解き明かし。なんと羨ましい時間でしょうか。聞くほどに彼らの先入観が解きほぐされます。時間も忘れて没頭したのでしょう。気付くともうエマオの前まで来ておりました。もっと聞きたい。もっと知りたい。彼らは旅先で会った特別講師に自宅に泊まるようにと強く勧めます。イエス様はそれに応じられました。そして、イエス様は彼らの家で食卓に着き「パンを取って神をほめたたえ、裂いて彼らに渡され」ました。普通それは家の主人がやることです。けれど客であるイエス様が、主人を差し置いてパンを取って裂かれます。もちろんそれはイエス様が教えられた聖餐の食事を連想させる行為でした。それはイエス様こそが罪を過ぎ越すために神に捧げられる生贄の羊であることを意味するものです。つまり、聖書の語る救い主の成就です。彼らがそのパンを手にしたその時、彼らの目が開かれ、彼らはその人がイエス様本人であったことを悟ったのです。
 見ないで信じるということは難しいことです。けれど、見ているままを信じると言うこともまた難しいことです。クレオパとマリアは見ていたのです。一緒にあれやこれやと話したのです。それでも彼らは目の前にいるその人がイエス様だと悟ることはできませんでした。彼らはこれまで自分たちの願うようにイエス様を見ていたからです。自分たちの見たいように見、聞きたいように聞く。彼らの先入観が、彼らの目を曇らせていたのです。
 彼らの目が開かれて、イエス様であることが分かったその時、イエス様の姿は見えなくなりました。霊の目が開かれて救い主を知るとき、見える見えないは関係無いのです。目が開かれるとは、見えることではありません。聖書の解き明かしから、主と出会うことです。御言葉に聞くとき、私たちの心の内に御霊が働かれるのです。主が啓示されたそのままを聞く。それは口で言うほど簡単ではありません。自分の好みを探したくなります。心を占める心配事に答えを見つけたくなります。けれど、ひととき、主の御声に聞くとき、私たちはそれら一切の思い煩いを手放す必要があるのです。私たちが自分の願いを主に見出そうとするなら、たとえ復活の主が目の前にいようとも、見ることができません。主が語るままを聞く。そのとき、意味がわかろうとわかるまいと、好ましかろうと好ましくないと、関係はありません。私たちは救い主の御声を聞くのです。

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