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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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200419 ハイデルベルク信仰問答 問126

エペソ4:32 「負い目をお赦しください」

 「われらの罪を犯す者をわれらがゆるすごとく、われらの罪をもゆるしたまえ。」という祈りには、馴染みとともに違和感もあります。まるでこの祈り方では、私たちが赦したということを条件として突き付けて、私たちのことをも赦せと神に迫っているようだからです。あるいは、私たちが神の見本であるかのような印象も受けます。この祈りの表現は昔の文語訳聖書の訳から来ているかなり直訳的な表現ですが、実は今の聖書ではそのようには訳されておりません。マタイ6:12を見ますと「私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。」とあります。まず私たちの負い目を認め、神の赦しを乞う願いがあります。その上で、私たちも負い目のある人を赦します。と、赦された者としての生き方が決意されるのです。
 まずは「私たちの負い目をお赦しください。」です。ルカの福音書では「私たちの罪」と言い換えています。「罪」と「負い目」は置き換え可能な同意義語だということです。つまり罪を犯すと、そこには負債が生じるのです。私たちが罪を犯すとき、法律に則って罰が下されます。同じように、神によって造られた人間が、神の意図に反し、神をないがしろにし、神に相応しくない振る舞いによってその御名を貶めているとするならば、それは神に対する重大な裏切り行為であり、それゆえ神に対して負債を負うこととなるのです。
 私たちは神に負い目を持った者だと言うことを認めなければなりません。これが神と私のそもそもの位置関係です。ですから私の正しさや、私の評判や、私の努力や、私の実績を、神の前にひけらかしてその赦しや祝福を求めるなどあり得ないのです。私たちは神と取引をするなどできません。私たちには払うべきものがありません。むしろ負債を負っている。だから私たちは赦しを乞うしかないのです。「私たちの負い目をお赦しください。」これは私たちの内には赦される要素は何もないという罪の告白の祈りです。そして、その祈りは確かに主イエスによって聞かれたのです。
 神の前に赦しを乞う私たちが、次に祈るべき祈りは何でしょう。それが「私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。」という決意の祈りです。なぜなら、それこそが神が私たちに望んでおられる赦された者としての生き方だからです。イエス様はある時、一万タラントという借金を王から免除された男の話をされました。この男、王から莫大な借金を赦してもらったにも関わらず、自分が100デナリ貸していた仲間に返済を詰め寄ります。そして挙句牢に放り込むのです。王は男の振る舞いに大変憤り、負債を全部返すまで獄吏に預けたという話です。この例え話の王とはもちろん神さまのことであり、赦してもらった男とは私たち人間のことです。神は言われます。「私がおまえをあわれんでやったように、おまえも自分の仲間をあわれんでやるべき」だとです。
 私たちはイエス様の命と引き換えに赦された者です。それは一方的な恵みです。私にはその資格もないのに、主イエスは私たちの赦しとなられたのです。ですから私たちは赦されたことで終わらせてはなりません。赦す者となりたいと思います。イエス様ならそのように生きたであろうからです。私たちが赦すとき、そこにイエス様の生き様が証しされるからです。
 さて、まず「私たちの負い目をお赦しください」。そして「私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します」と祈る。この順序が大事だとお伝えしました。けれど、私たちはその祈りの意味と向き合うとき、もう一度最初の祈りに戻る。戻らざるを得なくなる。そういう意味で「われらに罪を犯す者をわれらがゆるすごとく、われらの罪をもゆるしたまえ」とは、まさに私たちの心の内を言い表しているのです。なぜなら、私たちが誰かを赦そうとするとき、私たちはそのことの難しさに直面するからです。赦したくても赦せない。愛したくても愛せない。1万タラントを赦されても尚、たった100デナリを赦せない器の小ささを見出すからです。だからこそ「私たちの負い目をお赦しください」と戻らざるを得ないのです。
 しかしこれは同時に、至らない私たちのために犠牲となられたイエス様の愛を実感するときでもあります。神の赦しは、イエス様の犠牲は、明らかに釣り合いの取れない破格なものなのです。私たちは絶えずこのところに戻らされます。だから決意するのです。「私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。」己の弱さを知り、欠けを知った上での決意に意味があるのです。それは高いところから下々の者を見下ろす情けではありません。同じ弱さを抱え、痛みを抱えつつ、尚も赦しにあずかった者だけ持てる共感です。だからこそ、主は弱い惨めな私たちにご自身の命を託されたのです。

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