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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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200426 ハイデルベルク信仰問答 問127

ローマ8:12-17 「悪より救い出したまえ」

 先日、ネットニュースを読んでおりましたら、最近の日本語には敬語が4種類あるというニュースがありました。尊敬語、謙遜語、丁寧語。そして4つ目は卑屈語だと言うのです。「ご確認いただければ幸いと存じますがいかがでしょうか」と言ったように、必要以上な敬語を幾つも重ねて用いる言葉のことを記者は「卑屈語」と呼んでいます。そして卑屈語は相手に対する尊敬でも、謙遜でも、丁寧でもなく、「保身」の気持ちから生み出されていると指摘します。つまり「嫌われたくない」「責任を取りたくない」という「保身」の気持ちが、日本語を歪め、卑屈にしているのだと言うのです。なるほどと思いました。私はそれが全て悪いとまでは思いませんが、しかし、その言葉の根底にあるものが「保身」であるとすれば、それはやはり敬語とは言えないと思いました。
 このことは言葉だけの話ではありません。実は私たちの生き方、性格、あらゆる人間関係にも蔓延しているように思うのです。つまり、私たちの職場や学校や家庭において「嫌われたくない」「責任を取りたくない」という「保身」気持ちが、その人を必要以上に卑屈にならせているということです。あらかじめ相手に期待させないように振る舞うことで、敵意や競争心の対象から外れようとしたり、相手を幻滅させないようにするのです。だから必要以上に自分を卑下します。けれど、そのような振る舞いは往々にして相手に「卑屈」として映るのです。そして余計に関係をこじらせていく。実はそういう人が増えている。それはつまり自分自身を肯定して見れない、自分に対する自信の無さから来ることです。そして、それは信仰においても同じ事が言えるのではないかと、こう思うわけです。つまり神に対して嫌われたくないという保身が、どうせ私なんてという卑屈に繋がっているという話です。
 ある時、会堂で教えられるイエス様の前に一人の女性が連れて来られます。それは姦淫の現場を取り押さえられた女性でした。人々はイエス様にこの女性の裁きを委ね、イエス様は「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの人に石を投げなさい。」と命じて、結果、彼女を救うのです。イエス様は彼女に言います。「女の人よ、彼らはどこにいますか。だれもあなたにさばきを下さなかったのですか。」「わたしもあなたにさばきを下さない。行きなさい。これからは、決して罪を犯してはなりません。」罪の赦しの後に、イエス様は罪を犯してはなりません。と命じられるのです。さて、この女性はこの後一切の罪を犯さずに過ごしたのでしょうか。もちろん、そんなことはありません。というか、できません。私たちは神と真摯に向き合うほどに自らの罪に気付かされるからです。ですから、このイエス様の言葉は「もう次はありませんよ。今度罪を犯したら赦しませんよ」という意味ではありません。今までは罪と向き合うことをせず、自分の中で色んな言い訳をしてきたかもしれない。けれど、これからは罪と真摯に向き合って、戦って、犯さないように努力しなさいよ。どうせ神に罰せられると開き直らないで、卑屈にならないで、神の期待に応えられるように励んでくださいね。と、こういう意味であったろうと思うのです。
 ですから「われらをこころみにあわせず、悪より救い出したまえ」とは、神の前に罪を犯さないで歩んでいきたい。神の期待に沿える者でありたい。という心からの願いの行き着くところとして、この祈りがある。そして聖霊の助けがあるならば私たちにはできるという信頼の下に、この祈りがあるのです。
 「謙遜」と「卑屈」は似て非なるものです。謙遜は自分の弱さを認めて遜ることですが、卑屈は見たくない現実を避けるために、敢えて弱さに甘んじることです。罪と向き合うことを避けるために、自分は弱いから仕方ないと開き直るのです。それは神さまには全てお見通しです。罪赦された私たちはその生きる向きを変えなければなりません。これからは決して罪を犯さない。という決意の向きにです。神の期待を応えて励む。という決意の向きにです。
 ローマ8:15には、「あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。この御霊によって、私たちは「アバ、父」と叫びます。」とあります。奴隷でいることはある意味、楽な生き方です。決断しなくて良いからです。責任を負わなくて良いからです。けれど奴隷でいることは、いつ主人の怒りを買うかわからない。いつもびくびくとそのご機嫌を取らなくてはならない毎日です。神はそのような関係を求めておられません。神は私たちを子として迎えてくださったのです。それは神が私たちの父となる。父として最後まで面倒を見てくださることを意味しています。失敗をすれば正されますし、間違いを犯せば叱られます。けれど、親子の関係は切れることはありません。注意され、叱られたからと言って、自分は愛されていないと不貞腐れる必要はありません。どうせ自分なんてと卑屈になる必要はありません。神はいつまでも父であり続けられるお方です。私たちの成長を楽しみとし、見守って下さるお方なのです。
 卑屈は自信の無さから来るでしょう。けれど、自信が必要なのではありません。信頼があれば良い。私たちの弱さを覆う主の愛に信頼するとき、神と共に生きることの決意が生まれるのです。
 だから、私たちは祈るのです。「われらをこころみにあわせず、悪より救い出したまえ」父なる神に相応しい子でありたい。心からそう願いつつ、けれど適わない自分を認めつつ。だからこそ聖霊が私を助け、導いてくださるように。成長させてくださるように。私たちが大胆に神に近づけるようにと祈ってまいりましょう。

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