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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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200503 ハイデルベルク信仰問答 問128

詩篇115:1、Ⅱコリント1:20 「神の約束は全て然り」 

 主の祈りの最後は頌栄で結ばれます。「国とちからと栄えとは、限りなくなんじのものなればなり。」ところが、イエス様が主の祈りを教えられたときにはこの部分はありませんでした。けれど世々の教会は祈りの終わりに頌栄を加えて祈るようになりました。それはこの頌栄が祈りの行き着くところ。祈る者の自然な応答を表しているからです。
 「日毎の糧を与えてください。私たちの負い目をお赦しください。こころみにあわせず、悪より救い出してください。」それはその前提として、神は私たちの一切の必要を備えてくださるお方であり、神は罪を罰し、また赦す権威を持たれるお方であり、神は悪魔をもひれ伏させる権威あるお方である。という信頼をもとにして祈るのです。逆に言いますと、それ以外は何もいりません。私たちの祈りが聞かれる根拠は私たちの祈りの流暢さにあるのではありません。祈りに掛けた時間でも祈りの質ですらもない。ただ、この祈りを聞かれるお方が、全てを統べ治めておられる国と力と栄えのまことの権威者。王の王たるお方だということにあるのです。
 さて、主の祈りの最後。いえ、全ての祈りの結び。それは「アーメン」です。アーメンというのはヘブル語で「本当に」とか「確実に」という意味の言葉です。今祈りましたことは全て私のまごころからの祈りです。という告白の「アーメン」。しかし、それだけではありません。さきほどの頌栄でも見たように、私のこの祈りが本当であり確実なのは、この祈りを聞いておられるのが他ならぬ全能の神であるからです。私が真実なる祈りをささげましたという以上に、真実なる神によって聞かれているということに、この祈りの確かさがある。今祈りました祈りの全ては主にあって本当となります。実は私たちは祈る度にこの「アーメン」という言葉を持って信仰告白をしているのです。
 もちろんこれは主の祈りだけに当てはまることではありません。全ての祈りの最後がこのアーメンで締められているのは、祈りが私たちの内の真実に拠らないことを意味しています。私たちの内に真実はありません。本来なら聖なる神に祈ることすらおこがましい存在であるのが私たちです。ですから、私たちは祈るとき、これを執り成して下さった方のお名前によって祈るのです。私たちは祈ることすらも許されない者。しかし、私たちの代わりに私たちを執り成して下さった方がおられる。ご自身の命を差し出して私たちの負債を肩代わりして下さった方がおられる。それが神のひとり子イエス・キリストです。
 「イエス・キリストのお名前によってお祈りします。」と私たちは祈ります。この方の名前を出すことは、負債が支払われたときの領収書を出すようなものです。もう私たちには負債は支払い済みですから、どうぞ今あなたの御前に祈ることをお赦しください。という意味なのです。主の祈りではイエス様のお名前で祈るようにとは言われていません。当然です。主の祈りは主ご自身の祈りなのですから、あえてそのような祈りをする必要がなかったのです。けれど私たちは違います。私たちはイエス様の名を出さなければならないのです。主の執り成しがあるゆえに、私たちは祈ることができるのです。そして、これを聞いて下さるのが他ならぬ神様であるゆえに祈ることができるのです。私たちの何かに依存しない祈りの確実さ。これが私たちの祈りを可能にしているのです。
 ですから私たちは祈るたびに思い返したいものです。この祈りを可能にしているイエス・キリストの尊い犠牲があることを。そして、これを聞いて下さる方は何にも変えられない真実なお方であること。そうすれば私たちは祈るたびに謙遜にされ、感謝を増し加えることとなるのです。
 十戒と主の祈りはこの神に感謝すべき私たちの今を整え導くものです。たかがアーメン一つに私たちは主の贖いと神の愛を見ることができるのです。情報も価値観も正義すらもが氾濫する時代です。都合の悪い基準は根本から変えてしまおうというのが、今の世の中です。しかし、それは結局長いものに巻かれる生き方。多数に紛れることを良しとする忖度の生き方。そのような生き方に真の平安はありません。私たちは変わらないものに目を向けて、この時代の波を乗り越えて行かなければなりません。十戒という普遍的な基準を胸に、今日も主の祈りに支えられながら、変わるところのない十字架と復活の恵みに目を留めて歩んでまいりましょう。

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