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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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200506 Ⅰ列王記6:1-13 「神の国の職人たれ」

Ⅰ列王記6:1-13 「神の国の職人たれ」

 ソロモンによる神殿の建設の様子が記されています。それは父ダビデの悲願の神殿でした。ダビデは神のために神殿を建設したいと願うも神からの許可は下りませんでした。彼がこれまで血を流しすぎたからです。神殿は息子ソロモンが建てる。それが神の回答であありました。そこで、ダビデは神殿の土地を用意し、その莫大な材料を用意して息子に思いを託すのでした。そして、その父の思いを引き継いで、ここにソロモンは神殿建設の大事業を完成させたのです。
 7節に「神殿は建てるとき、石切り場で完全に仕上げられた石で建てられたので、工事中、槌や、斧、その他、鉄の道具の音は、一切神殿の中では聞かれなかった。」とあります。別の場所で仕上げられた石なので、道具の音は一切神殿の中で聞かれなかった。というのは、すっと読み飛ばしてしまうかもしれませんが、とても驚くべきことです。現代でこそ、建築材料は作業場で加工して現場で組み立てるという工程は当然のこととなっていますが、それにしても道具の音が一切聞かれないということはあり得ません。当時の神殿建設は石を積み重ね、木材で覆って造られたわけですが、それら一切が釘一つ使われることなく静かに組み立てられていくというのはもはや奇跡です。どれほど繊細で緻密な下準備が成されていたかが窺い知れます。これを可能にするには綿密な設計図が必要です。実は14節以降からは、より具体的な神殿の細部の装飾に至るまでの建築の様子が記されていますが、それらも同様です。各種の材料が造られて、運ばれ、組み立てられます。現代でこそPCで正確に製図し、それをロボットが狂いなく形作ることができますが、当時はもちろん手作業です。しかも実際に組み立てて現場で微調整をするのではありません。あくまでも材料として用意し、それを現場で組み立てるときには「完全に仕上げられた石」なのです。如何に一人ひとりの職人が妥協することなく忠実に自らの職務をこなしたことかと唸らされるところです。彼らの仕事に手抜きは一切ありません。彼らは自分たちの仕事に誇りを持っておりました。彼らは神の住まいを建設するという目的意識を共有していました。切り出した石にゆがみは無いか。木材にねじれは無いか。ミリ単位の調整をそれぞれが行いながら、設計図の通りに磨き上げて行く。そうして最善のものが運び込まれ、組み立てられて、神の神殿は建設されるのでした。
 実はこれは現代の宮である教会でも同じことが言えます。一人ひとりが神の住まいを建設するという目的意識を持って、それぞれの賜物に応じて忠実に奉仕することが、如いては神の宮を完成させる一端を担うのです。私たちは設計士になる必要はありません。設計士は他におられます。私たちはそれぞれの職人であるべきです。他人の奉仕と比べる必要は無いし、ましてやケチ付ける必要もありません。賜物も使命も違うのですから、比べても仕方ありません。石職人に金細工はできないし、音楽隊に武器を持たせる必要もありません。与えられた使命に忠実であれば良いのです。お花を活け、看板を書き、楽器を演奏し、御言葉を語る。どれもが教会を築く大切な奉仕です。誰もが賜物を用いて教会の一端を担っています。完全に仕上げられた石はぴったりと組み合わされ、そこには完全な調和が生まれるのでした。
 とは言っても、今はそれがかないません。奉仕しないで。教会に来ないで。と言うときがまさか来るとは想像もしなかったことです。けれど現状を嘆いても仕方がありません。今できることを淡々と。職人が必要なのは神の宮だけではありません。神の国も同じです。神の国の建設には、やはり一人ひとりの職人が求められています。賜物に応じて、それぞれの留まるところにおいて、私たちはキリストの名に恥じぬように過ごす。神の権威を認めて従う、そのところこそが神の国です。私たちが神の国の建設者として、神の権威にへりくだり、与えられた賜物を用いて隣人に仕えていく。そのように率先して過ごすものでありたいと思います。

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