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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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200513 Ⅰ列王記8:54-66 「今日のように」

Ⅰ列王記8:54-66 「今日のように」

 奉献式での祈りを終えて、ソロモンは民に向き、民を祝福いたします。主が共にいて私たちを見捨てませんように。私たちの心を主に向け、おきてと定めを守るようにさせてくださいますように。イスラエルの言い分を正しく聞き入れてくださいますように。ソロモンの願いの主体はあくまでも主です。彼の願いをよく見れば、それはけして主に強要することはなく、願いの一つ一つに答えることも答えないことも主のお心次第。主に委ねきっていることがわかります。イエス様の祈りもそうでした。「あなたのみこころの通りにしてください。」祈りとは神を強要することではありません。神に私を告白することです。神のみこころに私を委ねることです。
 その一方で民に対しては、「あなたがたは、今日のように、私たちの神、【主】と心を一つにし、主の掟に歩み、主の命令を守らなければならないのです。」と教えます。民は今喜びの絶頂にいます。何年もかけて用意した神殿が完成し、その出来は誰もが目を見張るほどだったのです。彼らはこの神殿の建設に携われたことを誇りに思い、今、この奉献式にかつてない神との結びつきを感じているところです。けれど、その感動はいつまでも続く類のものではありません。この奉献式が解散されれば、民はそれぞれの家へと帰ってまいります。料理を用意し、子どもたちを寝かしつけ、またいつもの日常が始まります。喧嘩もすれ違いも妬みも気遣いも、色んな日々の雑踏の中に紛れ込んできます。今日のこの感動を、この決意を、いつまでも持ち続けることは何と難しいことでしょうか。
 私たちは初めの感動を忘れやすいものです。教会生活が長くなるほど、聖書の知識も増しますし、奉仕も熟れてきます。教会生活は当たり前の日常となっていく。けれど、それは単なる私たちの成長と言って良いでしょうか。むしろ気を引き締めなければなりません。私たちの経験や慣れが、私たちの感動や恐れを奪っていくことがあるからです。
 皆さんはご自身の受洗日がいつかすぐに思い浮かびますでしょうか。そのときに語られた聖書の箇所は、タイトルは、何だったか覚えておられるでしょうか。バプテスマを受け、祝福を受けながら、心に決めたそのことはなんだったでしょうか。意外と思い出せないのではないでしょうか。「今日のように」と言いますが、これはそんなに簡単なことではありません。初めの感動や初めの決心、私たちの内にある思いは時とともに忘れされ薄れていくこともあるでしょう。日常の中の様々な心配事に心が追われ、感謝や感動になかなか目が行かないことも多々あるでしょう。それが私たちの現実です。ですから、「今日のように」を言い換えましょう。「初めの愛から離れない。」私たちの決意や感動に立つのではありません。初めの愛に立つのです。主イエスの愛に。永遠に変わるところのない神の愛に。私たちの土台を据えるのです。日常の中で喜びや感動や感謝を失った時、私たちがすべきは、その現実を無理矢理に感謝することではありません。私たちは初めの愛に戻るべきなのです。

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