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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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2015/07/26 ヨハネ2:12-25 「まことの神殿」

ヨハネ2:12-25 「まことの神殿」

 カナの婚礼の出来事から暫く経って、イエス様は過ぎ越しの祭のためにエルサレムに上られました。しかし、イエス様はそこで事件を起こします。宮の中に並んだ店の台をことごとく倒し、そして両替人たちを追い払ったのです。それは大事件でした。もちろん、宮は騒然といたします。いったいなぜイエス様はこのようなことをするのでしょう。
 両替人や生贄の家畜を売る店は、神殿礼拝のために重要な役割を担っていました。当時の一般的な硬貨はローマ硬貨です。しかしこれにはローマ皇帝の像が刻まれていますので、さすがに神殿で納めるのには向きません。そこでユダヤ人たちはわざわざ、神殿に納めるお金として、古いヘブル硬貨や、ツロのドラクマに両替して納めていたのです。両替人は、この神殿に納めるお金を用意しておりました。また、ユダヤ人は年に一度あらゆる地域から過ぎ越しの祭りにやって来ます。それは過ぎ越しの生贄を献げるためでした。しかしです。旅をしながら、生贄を調達することは大変なことでした。なぜなら神殿にささげる生贄は、死んだものではいけません。生きているもの。それも傷のないもの。しかし、旅をしていれば、傷も付きますし、死んでしまうこともあります。ですから、生贄の動物はエルサレムで調達するのが当たり前だったわけです。
 エルサレムの町は宿を取るのすら困難なほど賑わっている過ぎ越しの祭りの時期です。わざわざ遠くから旅をしてきて、生贄を用意するだけで一苦労なわけです。けれど、神殿でそれが用意できるなら、これほど便利なことはありません。手ぶらで来て手ぶらで帰ることが出来る。神殿内にあるこれらの店は、人々に大変重宝されたのです。
 しかしです。この「便利」こそが、生贄に最も似つかわしくない考えではないでしょうか。確かに、両替人にせよ、生贄を取り扱う店にせよ、それらは大事な役割を持っています。しかし、それらは何も神殿内で行う必要はありません。エルサレムの町にはそのような店が幾らでもありました。神殿の入り口のすぐ外にも、それらの店は連なっていた。幾らでもそこで調達することができた。にも関わらず、神殿内にそれらの店が設けられていた理由。それは人々の少しでも手間を省きたいという思い。面倒を省略したいという思いに他なりません。一言で言うと面倒くさいのです。そしてそうした人々の思いに便乗して儲けようとする店主と、場所代を取る祭司たち。しかし、そもそもこの生贄の血は災いを過ぎ超すための尊い犠牲でした。その家の初子の命を左右する特別の生贄でした。それを面倒だと考えること自体、神をないがしろにすることです。神さまへの捧げ物の準備に、コンビニエンスが優先されるということが、すでに本来の意味を失ってしまっているのです。
 命のための犠牲ですから、手間をかけるべきなのです。例えばです。牧師が教会から謝儀をいただくとき、手間を省くために事前に献金を抜いていただくとしたら、これは献金の意味を成していないですね。手間がかかっても、自分で献金を準備する。取り分ける。そうすることが大事です。生贄も同じです。手間や犠牲を負って準備することに意味があるのです。アブラハムは息子イサクを生贄として献げるようにと命じられ、胸が引き裂かれそうな葛藤と痛みの中、神の命に従い、イサクを捧げます。結果的には、神が別の生贄を用意されたことで、イサクは助かるわけですが、神がご覧になられたのは、そのアブラハムの覚悟と信仰でありました。詩篇51:17「神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。」形だけを整えるだけでは神を礼拝することにはなりません。そこには真の神への畏れがなければならないのです。

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