FC2ブログ
プロフィール

Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

最新記事
カテゴリ
月別アーカイブ
最新コメント
検索フォーム
リンク
QRコード
QR

200520 Ⅰ列王記13:1-10 「神と向き合うために」

Ⅰ列王記13:1-10 「神と向き合うために」

 ユダ(ベニヤミン)を除く部族に後押しされて王となったヤロブアムですが、困ったことに北の王国には神殿がありません。この時代の民は、神殿建設に直接関わった世代が多くおります。彼らは神殿を誇りとしていました。ですから、多くの北の民が、事ある毎に国境を超えて、エルサレム神殿を詣でるのです。ヤロブアムは民の流出を防ぐために、金の子牛を二つ造り、北イスラエルの南のベテルと北のダンに宮を設けて、祭司を任命し、そこで生贄を捧げることを始めました。極めて政治的に国家ぐるみの偶像礼拝が開始されたのです。
 このヤロブアムの大罪に対して、ひとりの神の人(預言者)がユダからベテルに警告のメッセージを携えてやって来た。というのが、今日の場面です。「祭壇よ、祭壇よ、【主】はこう言われる。『見よ、一人の男の子がダビデの家に生まれる。その名はヨシヤ。彼は、おまえの上で香をたく高き所の祭司たちを、いけにえとしておまえの上に献げ、人の骨がおまえの上で焼かれる。』」神の人のこの預言は、後の時代、紀元前622に行われるヨシヤ王による宗教改革を預言しています。けれど、この時点において大事なのは、ヤロブアムの行為が主の怒りを買う出来事だとの指摘です。ヤロブアムが自分勝手に宮を設け、香をたき、生贄を献げることに対する警告として、その宮が取り除かれることの預言が語られるのです。もちろん、預言の意図は、ヤロブアムがこの愚かな罪を悔い、取り除くことです。けれど、ヤロブアムは聞く耳を持ちません。神の人の言葉を聞いて従うのではなく、逆に手を伸ばして「彼を捕らえよ」と命じます。すると、彼の手がたちまちしなびれて、戻すことが出来なくなったのです。もちろん、神の警告でした。ヤロブアムは慌てて神の人に執り成しを願い出ます。神の人は主に願い、ヤロブアムの手は元のとおりとなりました。するとヤロブアムは神の人を食卓に招き、贈り物をしたいと願い出ました。けれど、神の人はその申し出を丁重に断り帰っていくのです。なぜなら、あらかじめ【主】のことばによって、『パンを食べてはならない。水も飲んではならない。また、もと来た道を通って帰ってはならない』と命じられていたからでした。神の人は、王に従うよりも、神に従うことを良しとしたのでした。
 この時、神の人は言いました。「たとえ、あなたの宮殿の半分を私に下さっても、私はあなたと一緒に参りません。」つまり、食卓に誘うというのは、ヤロブアムの配下となれという誘いだったわけです。自分に不都合な意見をする神の人を疎ましく思って捕らえようとしたヤロブアムが、手の平を返したように神の人を引き留めようとする。自分の手の内に置こうとする。それは、目に見える警告のしるしを体験し、神の人を身近に置くほうが得策だと考えたからです。敵対するよりも味方につけたほうが得だと打算した。けれど、そもそもの神の人の警告には決して耳を傾けようとはしないヤロブアムなのです。本当に神の人を味方に付けようとするのなら、食卓に誘うのではなくて、その声に聞き従うべきです。「あなたの言う通り、偶像礼拝を一切排除します。金の子牛も宮も取り壊します。その上で、これからも私を諌めて、導いてほしい。側にいて私を助けてくれないだろうか。」そういう申し出であるべきなのです。けれど、ヤロブアムは神の人を味方に付けたい。けれど、偶像は取り除かない。ダブルスタンダードであろうとしたのです。
 ヤロブアムは根本的なところで間違いをしています。彼の罪を警告し裁かれるのは、神の人ではなくて、神なのです。神の人は、神によって警告を告げるべく遣わされた人に過ぎません。ですからヤロブアムが味方にすべきは他でもない神です。そしてそのためには、まず彼が罪を悔い改める必要があるのです。
 私がまだ学生の頃の話です。日曜日に礼拝を休もうと母教会に連絡を入れました。「すみません。今度の日曜なんですが用事があって行けません。ほんとにごめんなさい。休んでもいいでしょうか。」すると牧師婦人が言いました。「それは私に許可を取ることではありません。神さまに伺ってください。」厳しい一言です。けれど、そうなのです。私たちは神の人に取り入るのではありません。神と向き合わなければ。そのために、為すべきことを為し、控えるべきを控える。自らをよくよく吟味することが大事なのです。

コメント

非公開コメント