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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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200603 Ⅰ列王記20:22-43 「困難を乗り越えた先」

Ⅰ列王記20:22-43 「困難を乗り越えた先」

 Ⅰ列王記の20章は北王国イスラエルへの2度に渡るアラムの侵攻の様子が描かれています。
 1~21節までが1度目の侵攻。22~43節まではその一年後に起きた2度目の侵攻となります。今日の箇所はこの2度目の侵攻の場面です。アラムの王ベン・ハダデは前年度の敗北を塗り替えるべく、再び北イスラエルに攻め上ってきます。この時、アハブに助言する預言者は、エリヤとは別の預言者です。用意周到な神様はエリヤを送ってアハブの罪を糾弾し、別の預言者を送ってアハブを立ち返らせようとするのです。人間、面と向かって言い争った相手の言葉は、たとえそれが正論であろうと、意地を張って受け入れられないということが往々にしてあります。そこで、神様は別の預言者を送られるのです。
 ですから、アラムに対しての神の裁きは、同時にアハブの信仰のテストの意味合いも含まれていたわけです。もちろん、アハブを試すためにアラムが犠牲となったと言う話ではありません。アラムが己の都合でイスラエルを攻めたのです。そしてアラムが主を神々と同列のものとして侮辱したことに対する裁きです。しかし、神は一つの事がらをもって、あらゆる者にみこころをなされる方でもあります。ある者にとっては信仰のテストであり、ある者にとっては罪の裁きとなる。どちらも神の御心なのです。
 戦いはイスラエルの圧倒的な勝利を持って終わります。イスラエルは一日に10万人のアラムの歩兵を打ち殺したとあります。これは当時の誇張表現ですが、つまり「おびただしい数の」とか、「数えきれないほどの」という意味です。アハブはアラムの2度に渡る遠征を防ぐどころか、圧倒的な勝利でもって跳ね返したのです。
 戦いが終わり、命乞いをするベン・ハダデとアラムを、アハブは気を良くして許します。そして見返りにオムリ王の時代に奪取された町々の返還と、ダマスコでの商業権利を得るのです。ところが、神はアラムを聖絶しようと考えておられたのです。このことをアハブが先に聞いていたかはわかりません。けれど、大事な決断を神に伺うことなく、気分のままに下したことは事実でした。国の繁栄にも繋がるアハブの選択。それは人の目には賢い選択のように映ります。けれど、これがアハブにとっては、神に立ち返る試験であったことを考えると、それは主の命令を軽んじる選択でしかありません。預言者を通じて、神の声が届けられていたのですから、預言者を通じて神に伺うこともできたのです。そもそもアラムに勝利したのも、主のなさるところでした。それを自らの力と錯覚し、機嫌を良くしたところにアハブの高慢があります。罪は勝利とともにやって来るのです。
 これは私達にとっての信仰の戦いと重なる出来事です。聖絶をせよ。と主は言われるのです。「あなたがたは、罪と戦って、まだ血を流すまで抵抗したことがありません。」(ヘブル12:4)とあります。「あなたがたが誇っているのは、良くないことです。わずかなパン種が、こねた粉全体をふくらませることを、あなたがたは知らないのですか。」(Ⅰコリント5:6)ともあります。罪とは上手く付き合ってと私たちは思います。多少の妥協はつきものと言い訳をしたくなります。けれど、そうではないのです。問題はその妥協が主の言葉に反して為されているということです。わずかな妥協が足元をすくうことがあるのです。「勝って兜の緒を締めよ」と言います。「喉元過ぎれば熱さを忘れる」とも申します。私たちの戦いは徹底しなければなりません。困難な時、私たちは黙っていても祈ります。主にへりくだります。けれど問われるのは、困難を乗り越え、勝利を得て、尚祈ることです。へりくだることです。主の御声に聞かなければなりません。わが身の振る舞いを主に伺わなければなりません。私たちは今、困難だから祈るのではありません。困難であろうと、それが過ぎようと変わらずに、日々の御言葉によって私の今日を吟味する。そのようにして養われる私たちでありたいと思います。

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