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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝メッセージを要約したものです。

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200617 ルカ8:4-15 「私が負うべき責任は」

200617 ルカ8:4-15 「私が負うべき責任は」

 イエス様のもとに大勢の群衆が集まり、方々の町から人々がやって来たので、イエス様はたとえを用いて話された。とあります。蒔いた種が落ちた地によって、4つの異なる結果となった。という話。
① 道端に落ちた種は、人に踏みつけられ、空の鳥が食べてしまった。
② 岩の上に落ちた種は、生長したが、水分が無くて枯れてしまった。
③ いばらの真中に落ちた種は、茨も一緒に生え出て、ふさいでしまった。
④ 良い地に落ちた種は、生長して100倍の実を結んだ。
 そして結論的に言われます。「聞く耳のある者は聞きなさい。」
 話の内容から結論が突飛しているように聞こえますが、それはこれが例え話だからです。イエス様は種とは神の言葉だと明かされます。神の言葉の話だから、「聞く耳のある者は聞きなさい。」となるのです。では、どういう意味でしょうか。
① 道端のように無造作に、興味も無く聞き流した神の言葉は、その人の内に根付くことなく、悪魔が来て取り去ってしまう。
② 岩のように頑な心では、その時は喜んで受け入れるけれど、根が無いので長続きすることはない。何か辛いことがあるとすぐに投げ出してしまう。
③ 茨が生い茂る心とは、二心のある心。時が経つにつれ、生活の思い煩いや、富や、快楽に関心が向き、御言葉の実を熟すことは無い。
④ 耕され、十分に備えられた心では、神の言葉がしっかりと根を付け、多くの実を結ぶこととなる。
 種には違いはありません。実際の種蒔きなら、種の状態にも違いがあります。けれど、神の言葉に変わりはありません。変わるのは、神の言葉が落ちる先。聞く者の心です。ですから、群衆に対してイエス様の語る例えの意味するところは、整えられた心で、素直に、神の言葉を聞き入れなさい。という奨励です。今、イエス様のもとに集まり、イエス様が語られる言葉に耳を傾ける群衆たち。けれど、その聞き様は様々です。踏み固められた道端のように心を頑なにし、まったく受け入れようとしない者もいたでしょう。うわさのイエス様を前に興奮して聞くけれど、一向に自分のこととして聞こうとしない、ノリや雰囲気で集っているだけの者もいたでしょう。懸命に、真面目に聞いて、それが大切だと知るけれども、他のものも捨てきれない。どっちつかずで、二心の者もいる。
 けれど、大事なのは、まず耕し、うねを設け、肥料を蒔き、土を作ること。御言葉に聞くその前に、心を頑なにせず、よくよく心を耕して、聞く備えをする、土を作ることが大事なんですよ。とこう言っているわけです。だから「聞く耳のある者は聞きなさい。」という結論に至るのです。
 けれど、このことは一方では、御言葉がその人の祝福となって実を結ぶかどうかは、これを聞くその人次第なんだということでもあります。弟子たちにだけ解き明かしがなされるのは、語る側にだけ向けた別のメッセージがあるわけです。実が結ばれるかどうかは、語る者の責任ではないんだ。と教えてもいるのです。どんなに素晴らしい教えであっても、どんなに熱心に語ろうと、それを聞く者の心によっては、枯れもすれば、実を結びもする。だから、あなたたちに求めているのは、ともかく蒔くことだとおっしゃるのです。どんなに正しくても、頑張っても、結果が出ないことはあるのです。それは聞く者が心を頑なにしている時です。いい加減に聞き流している時です。必要を感じていない時です。聞く耳のない者の結果まで負う必要はないですよ。と言われるのです。これは逆に言うと、実を結ぶのもあなたの手柄ではないよということでもあります。御言葉を聞くか聞かないかはその人が自ら選び決断すべきことです。私たちが救うのではありません。主の御言葉がその人の内に留まる時、その人は救われるのです。だから私たちが負うべき責任は種を蒔くことにこそあるのです。
 Ⅱテモテ4:2-5が大事です。「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。忍耐の限りを尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。というのは、人々が健全な教えに耐えられなくなり、耳に心地よい話を聞こうと、自分の好みにしたがって自分たちのために教師を寄せ集め、真理から耳を背け、作り話にそれて行くような時代になるからです。けれども、あなたはどんな場合にも慎んで、苦難に耐え、伝道者の働きをなし、自分の務めを十分に果たしなさい。」

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