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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝メッセージを要約したものです。

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200621 ルカ1:39-45 「喜びも不安も分かち合って」

200621 ルカ1:39-45 「喜びも不安も分かち合って」

 24、25節を見ますと当時不妊というのが恥とされていたこと。そして、そういう偏見にエリサベツ自身が大変心痛めていたことがよくわかります。「五か月の間、安静にしていた。」とありますのは、第3版では「引きこもって」と訳されていた言葉です。年老いた身で子を授かったのですから、安定期に入るまでの間人一倍気を遣っていたということを言っているのでしょうが、それと同時に、年老いた身の妊娠を揶揄するような声を避けようとしたということでもあったのではないか。興味本位で無責任な噂が飛び交っていたと思うのです。老女の妊娠は人々の好奇心をあおる、格好のネタです。この妊娠を訝しがる人はいても、祝福してくれる人はおりません。エリサベツは5か月もの間引きこもらざるを得なかったのです。この後、彼女の引きこもりは解かれるわけですが、それは安定期が終わったからではなくて、彼女の親類のマリアの訪問によってでありました。
 一方、マリアです。御使いガブリエルによって妊娠を告知された彼女は、最初戸惑い、恐れるも、やがて、そのことを受け入れて告白します。「ご覧ください。私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように。」しかし、じゃあ、彼女は一切のことに安心したかというと、そうはなりません。マリアは身に起こる変化に、神のご介入を確信します。主が共におられる。そこに疑いはありません。けれど、だからと言って、人々のあらぬ言動や、好奇の目に傷付かないかと言いますと、決してそんなことはありません。何と言っても、マリアはまだ12歳そこそこの少女なのです。このことは、いずれ隠しておけなくなります。お腹が大きくなっていくのを止める術は無いのです。きっとあらぬ噂が飛び交うでしょう。そしてその矛先は自分だけでなく、両親や婚約者のヨセフにまで及ぶでしょう。先を思うと不安しかありません。彼女は居ても経ってもおられずに、村を出ます。彼女は御使いガブリエルが告げたエリサベツのもとに向ったのです。急いで向かったのです。一刻もはやくエリサベツに会いたかった。なぜなら、エリサベツだけは、マリアの身に起こった全てを理解してくれるだろうからです。エリサベツもまた、神の不思議を体験しているその人だからです。
 マリアは自分の身に起きたことをどうやって話そうかと迷っていたと思います。けれどエリサベツはマリアがあれこれと説明するまでもなく、状況を把握したのです。そして、マリアを祝福します。マリアはマリアで、エリサベツの体の変化に神の取扱いの不思議と確かさを見ます。そして、何より誰にも言えず一人抱えるしか無い事を、初めて他人の口から祝福されて、わが身に起きた不思議を神の幸いとして改めて実感するのです。
 同じ立場に置かれた二人だからこそ、二人は互いの支えとなりました。その痛みも悲しみも戸惑いも喜びも自らと重ね合わせる二人だからです。マリアが一方的に慰められたのではありません。エリサベツもまたマリアの存在に、自らがこの歳になるまで不妊であったことの意味、自分の人生を用いて働かれる神のご計画を見ます。心の底からわかり会える二人。大きな使命を背負うために、二人にはまずこの交わりが必要だったのです。
 私たちにも必要です。マリアにとってエリサベツが、エリサベツにとってマリアが、喜びも不安も分け合う唯一無二の存在だったように、私たちにもありのままにさらけ出し、不安も怒りも喜びも丸ごとを認め合える仲間が必要です。私たちは一人で抱えきれるほど強くはありません。私たちは支え合うことでのみ生きて行けるのです。かと言って、誰も彼もと心を通わすこともまた難しい。この世の中は弱さに付け込む世界だからです。本当の意味で安心し共有し合える関係は、信仰の交わりにしかありません。なぜなら真の交わりは、私たちは赦された罪人に過ぎないという前提によって築かれるからです。ですからそれは、まず私がプライドを脱ぐところから始めなければなりません。私は罪人に過ぎないと告白することから始めなければなりません。互いが自らの弱さを認めている。この前提のもとにあって初めて、私たちは心の内側をさらけ出すことができるからです。

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