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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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2015/08/02 ヘブル11:17-19 「よみがえりの信仰」

ヘブル11:17-19 「よみがえりの信仰」

 なぜ、神は私たちに試練を与えられるのでしょうか。そこには様々な意味があるかと思いますが、一つは、神がその試練の中で、私たちの信仰を試しておられるということです。私たちの信仰が本物かどうか。それは手放すものの価値によって決まるからです。あらゆるものを失っても尚、信じることができるのか。取り上げられても尚、従順でいられるのか。神は私たちの最後に残るものが他でもない、ご自身への信仰であることを望んでおられます。ですから、試練は私たちにとって受け入れがたいものです。試練は私たちにとって、これだけはと思うそのものを要求されるのです。
 神はアブラハムの信仰を試みられました。それは息子イサクを全焼のいけにえとしてささげなさい。というものでした。なぜ生贄にイサクが要求されたのでしょう。それはアブラハムにとって何よりも手放したくないものが愛する子イサクだったからです。神がもし別のものを差し出せと言ったなら、彼は喜んで差し出したと思います。息子のために自分の命を差し出せと言われれば、彼は躊躇なく従ったでしょう。彼にとって神は比べ得るもののない特別なお方です。ところが、そんな神にもこれだけは勘弁と思う、そのものを差し出すようにと神はお命じになられます。なぜなら全てを失って尚、残るものこそが本物だからです。神はここで、あなたは他の全てにまして、私を愛するか。とアブラハムに問うているのです。
 私たちが試練に遭うとき、実は同じことが問われているのではないでしょうか。あなたは他の何にも増して、私を愛するか。第一とするか。あなたは自分が一番になってはいないか。そのために、神様は敢えて、私たちが困難に思う試練を用意されるのです。
 いったい彼はどのようにこの葛藤に打ち勝ち、神に従えたのでしょうか。それこそがよみがえりの信仰でした。葛藤の中、苦しみの中、辛うじて彼を支えたのは、いのちを総べたもう全能の神への信頼でした。いえ、それは信頼と呼ぶには余りにもか細い、彼の願望であり、賭けでした。神は彼のそのか細い信頼を良しとしてくださったのです。
 さて、ヘブル書は信仰の見本としてアブラハムを記しています。アブラハムのようであれ、とです。しかし、実際のアブラハムは不安も悩みも弱さも抱えた一人の人でした。しかしそれでも尚最後には、神の全能を信じて委ねて従うのでした。このことは私たちに2つのことを教えてくれます。一つは試練の中、私たちは悩み苦しむ者だということ。もう一つは主のよみがえりは私たちの支えとなることです。
 私たちはどこかで、試練の時であっても悩んではいけない。それは不信仰なことだと考えてはいないでしょうか。けれど、そうではありません。悩み苦しむからこそ、信仰が問われるのです。私たちは試練にあって悩んでも苦しんでも良いのです。結果として、神に従うことができればいい。そしてそれはよみがえりの希望によってなるのです。19節に「これは型です。」とあります。いけにえのイサクを取り戻した出来事は、いけにえの死よりよみがえられたイエス様の型だと言うのです。しかし、それだけではありません。それは父アブラハムの痛み悲しみは、父なる神のそれでもあると言うのです。つまり、よみがえりの信仰とは、結果としての私たちの勝利を意味しているだけでなく、過程における私たちの葛藤を、父なる神がご存じであるということをも意味しているのです。そしてだからこそ、私たちはここに信仰の支えを得るのです。私たちの前に置かれている試練。そして試練の中で抱える葛藤は、神の知るところであります。だからこそ、私たちはその先にある勝利に確信が持てるのです。

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