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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝メッセージを要約したものです。

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200624 Ⅱ列王記1 「ひれ伏すことが正解」

200624 Ⅱ列王記1 「ひれ伏すことが正解」

 北イスラエル王国のアハブ王が死に、その後を息子のアハズヤが継ぎます。アハブとイゼベルの影響を多大に受けたアハズヤは、両親と同じく、バアル神を崇め、真の神を信じようとはいたしませんでした。
 そんな彼がある時、屋上の欄干から落ちて病気になります。恐らくは傷口が悪化して、菌が入り、破傷風のような病気を引き起こしたのでしょうか。だとすれば一大事です。それは死に至る病です。アハズヤは使者に命じます。「行って、エクロンの神、バアル・ゼブブに、私のこの病が治るかどうか伺いを立てよ。」バアル・ゼブブというのは「蝿の王」という意味です。「ベル・ゼブブ」と言ったりもします。蝿は様々な病原菌を持ち運びます。特にアフリカや中東地方では、傷口に産卵し体内に寄生する蝿がいたりしますから、アハズヤはそのような病を恐れたのかもしれません。ともかく、傷が悪化して重篤した。人間火急のときこそ、真実が炙り出されます。アハズヤは、他の誰でもないバアル・ゼブブに伺いを立てようとしたわけです。
 この事態に、主なる神は預言者エリヤを向かわせます。「さあ、上って行って、サマリアの王の使者たちに会い、彼らにこう言え。『あなたがたがエクロンの神、バアル・ゼブブに伺いを立てに行くのは、イスラエルに神がいないためか。それゆえ、【主】はこう言われる。あなたは上ったその寝台から降りることはない。あなたは必ず死ぬ。』」そして、エリヤはアハズヤがバアル・ゼブブの神殿に送り出した使者たちに直接出会い、この旨を告げて引き帰らせるのです。
 アハズヤは使者たちを脅して引き帰らせたのが預言者エリヤであることの報告を受けます。エリヤが名を名乗ったわけではありません。エリヤの風貌を聞いて、アハズヤが悟ったのです。アハズヤの父アハブと母イゼベルとは並々ならぬ因縁のあるエリヤです。もちろんアハズヤもエリヤを知っておりました。彼はそれがエリヤであることをすぐに悟りました。そこで、アハズヤはエリヤに来るように、50人の部下と隊長をエリヤの下に遣わすのです。隊長はエリヤに言います。「神の人よ、王のお告げです。下りて来てください。」ところがエリヤは「私が神の人であるなら、天から火が下って来て、あなたとあなたの部下五十人を焼き尽くすだろう。」と言って、事実その通りに天から火が下って、彼らを焼き尽くしてしまったのです。アハズヤはもう一度、50人隊を遣わします。けれどやはり天からの火によって焼き尽くされてしまいます。王は3度目の50人隊を遣わします。この3度目の50人隊の隊長は、前回前々回の様子を知っておりました。彼はエリヤの下に行きますと、即座にひざまずいて懇願します。「神の人よ、どうか私のいのちと、このあなたのしもべ五十人のいのちをお助けください。ご承知のように、天から火が下って来て、先の二人の五十人隊の長とそれぞれの部下五十人を、焼き尽くしてしまいました。今、私のいのちをお助けください。」すると、主から「彼と一緒に下って行け。彼を恐れてはならない」というお告げがあり、エリヤはようやくアハズヤのもとに下っていきます。そして、初めに使者に知らせたお告げを今一度知らせます。すると、王はそのお告げ通りに死んだのでした。
 さて、この箇所をどのように読むべきか。後半の50人隊に対する裁きの様子はいささかやりすぎのように思えるかもしれません。そもそもアハズヤの罪のために、100人以上もの部下の命が犠牲にされるというのは、何とも納得が行かないかも知れません。けれど、この使者は単なる使者ではありません。これは軍隊なのです。さらっと読み進めてしまうこの場面。実は50人もの部隊がエリヤのもとに遣わされ、彼を幾重にも取り囲み、無理矢理に王のもとに連行しようとする場面です。王の命を受けて、その威信を借りた大勢の兵隊が、一人の預言者を無理やり連れ出そうとする。その威圧的な様子は隊長の言葉に現れています。「神の人よ、王のお告げです。下りて来てください。」つまり、神の人のお告げを、王のお告げによって上書きし、神の人に下りて来るようにと命じている。つまり王の権威の前に、神の権威が侮られているのです。ですからエリヤを通じて主は、ご自身の権威を証明いたします。それがこの2度に渡る天からの裁きなのです。
 3度目に遣わされた隊長は、神と王を並べることはいたしません。彼はただ神にひれ伏すのみです。主なる神の圧倒的な権威の前に、彼は命を乞うしかできません。そして、それは正しい姿なのです。私たちが神の前に出る時、私たちにできることはひざまずいて命を乞うことだけです。私たちはすぐに言い分をしたくなります。正当性を訴えたくなります。私にはこういう真っ当な理由があるから、と言って、神を自在に動かしたくなります。この場合は「王のお告げである。」という正当性でした。けれど、どれだけ理由があろうとも、私たちが神を自在に動かそうとすることはできません。我が意のままに無理矢理に主を動かすことは許されません。しかし主の権威の前にただただひれ伏し、その身を主の判断に委ねる時、主なる神は御心のままに動いてくださるのです。ですから私たちの願いの前に、私たちの砕かれた心が問われるのです。

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