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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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200628 ルカ1:57-80 「その子の名はヨハネ」

ルカ1:57-80 「その子の名はヨハネ」

 さて、ユダヤでは産まれて8日目に割礼を施すわけですが、その時、ザカリヤとエリサベツの子に名前は付いていませんでした。人々は「父の名にちなんでザカリヤと名付けよう」と騒ぎます。と言いますのも、当時のユダヤでは長男の名にはその家系に縁のある名前を付けるのが一般的だったようなのです。なぜなら長男の名付けには単なる呼び名とは別に、家系を引き継ぐという意味合いもあるからです。ですから身近な人たちは、この子が正真正銘ザカリヤの子であり、その財産も、祭司としての職務も、家長としての責任も、一切合切を引き継ぐべき一人息子だという期待と証明の意を込めて、今ザカリヤの名前を挙げたわけです。
 ところが、エリサベツは「いいえ、名はヨハネとしなければなりません。」と断ります。ヨハネという名はザカリヤの家系にはこれまで無かったようです。ですから周りの人々は何かの間違いかと驚きまして、今度は父であるザカリヤに尋ねます。すると、ザカリヤは板を持って来させて「その子の名はヨハネ」と書いたので、人々はやっぱり間違いではなかったのかと再び驚いたのです。
 ザカリヤとエリサベツが我が子に縁もゆかりもない名前を付けるというのは、この子の生涯に、自分たちの人生を押し付けない。そうではなくて、特別な使命にこの子を送り出そうとする親の決意のようなものが見て取れます。待ちに待って、ようやく与えられた子ですから、片時も自分の側に置いてこの子の成長を見守りたいはずです。一族の名を付けて、一族の誇りを持って、祭司としての職務を継がせて、手取り足取り教えてやりたい。けれど老夫婦はそうではなくて、この子に付けるようにと授けられた特別な名を付けます。それはこの子の人生が、神によって特別に選ばれたものであると承知しているからです。
 ガブリエルは言いました。「彼はエリヤの霊と力で、主に先立って歩みます。父たちの心を子どもたちに向けさせ、不従順な者たちを義人の思いに立ち返らせて、主のために、整えられた民を用意します。」主に先立って歩む者。主のために整えられた民を用意する者。それがこの子の担う使命です。そしてこのことは、マリアとそのお腹にいる赤ん坊と出会ったあの時、確信へと変わったのです。その時エリサベツは体内で踊る我が子の特別な胎動を感じます。救い主の誕生を肌身に知ったのです。ですから、我が子に「ヨハネ」と名付ける。それはもはや祭司ザカリヤの家系に縛らない、このヨハネの名の下に担う神からの特別の使命。主のために、整えられた民を用意する者として、この子を世に送り出すという親としての並々ならぬ決意があるのです。
 更に言うなら、ここには自分たちはこの子の生涯を見届けられないという二人の覚悟があるように思います。自分たちは年老いて、もはやこの子の生涯を見守ってやれない。責任が取れない。我が子の可愛さを思うほどに、そういう現実が重くのしかかってきます。だからこそ、ザカリヤは生まれてくる我が子に進むべき指針を授けているのです。
 ザカリヤの預言は、救いの計画と成就に挟まれる形で、救いの道を備え、民を整える預言者の使命について語っています。つまり神の救いのご計画の中に位置づけられた我が子ヨハネの使命についてです。ザカリヤはここでヨハネの使命を数えることで、見届けることのできない我が子に進むべき指針を授けているのです。ヨハネの今後の人生に自分たちは寄り添ってやれない。抱きしめてやれない。自分たちが亡くなればヨハネは一人で生きていかなければならない。けれど、主の使命に励む時、そこにあなたの生きる意味がある。主の確かな守りがある。ザカリヤには確信があります。苦悩に満ちた自分たちの人生において、主の使命こそが拠り所だったからです。ですからザカリヤは生まれたばかりのわが子に、神の使命の内に生きよ。と言葉を残すのです。
 このザカリヤの親心はわかるような気がします。私たちもまた、子の生涯を見届けることは叶いません。親が子に先立つ。親の世代が子の世代よりも先立つ。これは自然です。けれど、だから何の心残りもなく先立てるかというと、それは別です。やっぱり残される者が心配です。子どもたちには迷いのない確信に満ちた人生を送ってほしいと願うのです。ですから親として、先に生きた者として、少しだけアドバイスをするならば、神の使命に生きよ。と言うことです。よく「自分の人生を生きる。」と言います。けれど、自分の人生ではありません。神の使命に生きるのです。その時、その人の人生は神にあって意味のある確かなものとされるのです。

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